開戦から30年を経た佐山・前田戦争、そしてその終結を導いた二人の偉大なる師の喪失について。
題名の通り、大阪臨海スポーツセンターでの佐山聡(スーパータイガー)と前田日明のセメントマッチから30周年。これを機会に、佐山と前田の交流&抗争史そしてその終結に至るまでに何があったかをまとめてみようというのが今回のテーマ。何と全42ツイートでございます(苦笑)。
例によって以下駄文ツイート長々転載。皆さまご笑覧あれ。
>本日、大阪臨海スポーツセンターでの佐山聡(スーパータイガー)と前田日明のセメントマッチ(急所蹴りによる佐山の反則勝ち)から30周年。これを機会に、佐山と前田の交流&抗争史そしてその終結に至るまでをまとめてみようというのが今回の試みであります、お立会い(笑)。まあ佐山と前田の(続)
>一時期の仲の悪さは語られること多いところですが、そもそもの佐山&前田の縁の深さ−−ほとんど業に近い(笑)−−についてはあまり語られないところではないでしょうか。まずそもそもが(1)前田のプロレス入りのきっかけが佐山と前田の師匠・田中正悟氏の接触であるという。こちらの(続)
>インタビューにも詳しいですが⇒http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20150630/E1435600822682.html?_p=3 まあとにかく前田のプロレスキャリアの初めから佐山の存在は欠かせないものであったと。そしてまた(2)プロレスの「仕組み」について前田に初めて教えたのも佐山であったという。前出のインタビューの(続)
>続き記事http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20150701/E1435677808598.htmlでも語られてるところですが、まあこのあたりプロレス入りのきっかけとなった者としての責任もあって、というところだったでしょうね、佐山さんとしては。さらにこれはいよいよ佐山のタイガーマスク時代の話ですが(3)佐山のタイガー(続
>デビューの伝説的試合・対ダイナマイト・キッド初戦においてそのフイニッシュを新間さんと並んで見守っていたのが前田(笑)。https://www.youtube.com/results?search_query=tiger+kid+81+4+23 見ていただければわかりますが、佐山タイガーの見事なジャーマンを新間さんの横でボーッと見守ってたのは(続)
>まぎれもなく前田さんでございますね(苦笑)。自分のプロレス入りきっかけの人間の劇的ブレイクの瞬間をしっかり見守ってたわけですね、前田さんは(笑)。そしてこれはあまり知られてませんが、(4)タイガーのタッグでの初敗戦のパートナーが前田(笑)。81年11月30日にカネック&(続
>スーパーマキナ組と対戦して、カネックに前田がフォールされてるわけであります。わたしゃこれで「前田明(当時)」の名を覚えたくらいですから(苦笑)。無敗のタイガーにタッグながら黒星をつけてしまう、その張本人みたいな役をあてはめられて、前田兄さんもさぞ複雑だったろうと(苦笑)(続
>そしてこれはもう有名なのが、(5)タイガーデビューで「サミー・リー」佐山がイギリスマットから抜けた、その穴埋めに英国マットで「クイック・キック・リー」としてデビューしたのが前田・・・ここまで並べると、いかに佐山と前田の縁が深かったか、てのが改めてお分かりではないかと。(続)
>まさに前田が新日入りした77年から第一次U単独興行停止の85年に至るまで、佐山と前田は最も密接な交流関係にあったわけで・・・ちなみに84・85年当時、まだ創刊間もない週プロでは選手を映画俳優やロックミュージシャンに見立てるのが流行っておりまして、その中で第一次U時代の(続)
>佐山&前田はアメリカンニューシネマ「真夜中のカーボーイ」のダスティン・ホフマン(=佐山)&ジョン・ボイト(=前田)に見立てられていたという・・・何とも太ったダスティン・ホフマンもあったものですが(苦笑)。しかしこの二人の奇妙な友情が当時のファン&関係者からいかに好意的に(続
>見られていたかが分かろうというものです。・・・しかし、その佐山&前田の8年間にわたる友情が、85年いきなりの破綻を見ることになる。第1次UWFは後楽園ホール等の一部のマニアからは熱狂的支持を得ますが、他の地方会場では大苦戦。それにも関わらずオピニオンリーダー佐山は(続)
>現行のルールをさらに格闘技的に(頭突き禁止など)推し進めていきます。なぜここまで佐山が強気だったかといえば、経営破たんしてもいざとなれば選手をスーパータイガージムで抱え込んでシューテイング(現・修斗)の選手にしてしまえばいいやといった思惑があったともとれます。少なくとも(続
>前田はそう取ったのだろう。それゆえの佐山への反発が85年9月2日大阪府臨海スポーツセンターでのセメントマッチにつながったのだと思えるのですね。https://www.youtube.com/watch?v=AFcsq9cSkPo 形としては佐山の反則勝ちになったものの、内容的には完全に前田の圧倒、さらに(続)
>この一戦のあと佐山と、前田を中心とする他の選手たちの亀裂が明確になり佐山はそのままUを離脱。前田らは新日本へのUターン提携へと動くことになるわけであります。・・・さて、新日本と第一次Uの提携時代においては佐山と前田の間に大きなトラブルはありません。むしろ前田対ニールセン(続
>の直後、佐山が北九州で開いた講習会において「ニールセンと戦った時の前田の蹴りはコークスクリューキック(当時佐山が提唱していた膝から入ってターンする蹴り)になっていた」と前田にエールを送るような発言をしていたのを、観覧していた僕は覚えていたりします。問題は第2次Uにおける(続
>前田の世間的大ブレイク後であります。自分が生み出した格闘プロレススタイルをもって、前田と第2次UWFが世間的成功を収めたことに対する憤懣からであったのでしょうか、当時エスエル出版会から出ていた「格闘技探検隊」関連の著作(http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/5054944.html)(続)
>において、佐山は痛烈な第2次UWF批判を繰り広げるわけです。https://www.youtube.com/watch?v=lAxUDmlWz5s 今、プロレスに舞い戻ってる姿勢と矛盾してなくないのかとも思え(苦笑)、それがいったん収まるのが第2次U分裂後というのも何ともはやなのですが(苦笑)。やがて(続)
>佐山は別の形をもって、U系プロレスへの強烈な攻撃を繰り広げることになります。アルテイメット・ファイテイング・チャンピオンシップ(UFC)旗揚げに乗じてのヒクソン・グレイシー招聘(しょうへい)、ヴァーリトゥードジャパン94開催がそれであります。U系戦士ケン・ウエイン・(続)
>シャムロックがUFC1において完敗を喫したホイス・グレイシー、そのホイスが「自分より10倍強い」と畏敬するヒクソンを招いて真剣勝負を繰り広げるというのは、まさにU系への興行的挑戦状に他ならなかったわけであります。そしてそのヒクソンに第一回戦で当てたのがリングス参戦経験の(続
>ある西良典であったというのもかなりにえげつない(苦笑)。こちらもご参照あれ⇒http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20140729 https://www.youtube.com/watch?v=7EXOVVPLrR4 さてここまでされて黙っている前田日明ではないわけで(笑)。翌年のVТJ95には何と山本宜久が(続)
>送り込まれ、ヒクソン・グレイシーと対戦します。これがリングスの大会で発表されたときの会場の興奮はWOWOWの中継からでもハッキリと分かるものでした(^^)。まさに85年の直接対決を第一次佐山・前田戦争とするならば、95年のこれは間接的ながら第二次佐山・前田戦争と(続)
>言えるものであったろうと思うのです。さてその結果は・・・山本はルールのスキを突いてのロープつかみの奇策でヒクソンの首を取ってのネックロックで苦しめはしましたが、ロープを放して絞め直すまでの度胸を持ち得なかったので仕留めるには至らない・・・結局テイクダウンされて寝技に(続)
>持ち込まれるとあっけなくチョークの餌食になってしまい完敗、今日に至るまで高い評価を得たとは言い難い結果になってしまいました。一方で佐山が送り込んだ中井祐樹はゴルドーのサミング攻撃を耐えきってのヒールホールド一回戦突破、圧倒的体重差を乗り越えてクレイグ・ピットマンに腕十字(続
>準決勝突破と高いハードルを乗り越えて決勝でヒクソンと当たり、こちらは寝技で堂々と渡り合ったすえ結果はやはりチョークで完敗。しかし71キロという小兵での敢闘ぶりは今日でも感動的な伝説として語り伝えられるものとなりました。直接対決で事実上前田の勝利に終わった第一次佐山・前田(続
>戦争に比して、弟子同士の間接対決である第二次佐山・前田戦争は佐山の勝利に決したと言っていいかと思います(もっとも中井にはもともと七帝柔道のベースがあったので、これをもって佐山が指導者として上と言い切るのもどうかとも・苦笑。前田の弟子がガチンコで結果を出すのは翌年・続)
>トーナメントオブJでイーゲン井上を破った高阪剛を待つことになります・・・これも中井と同じく柔道で実績を持った選手であったのが何とも皮肉・^^;)。さて第二次佐山・前田戦争の後もしばらく二人の冷戦は続きます。その間に佐山は自ら作った修斗を離れ、初代タイガーとしてプロレス(続)
>再デビューしたりしてるので、前田にとってその姿勢はやや首をかしげるものであったのではと思うのですが、これについて前田は特に目立ったコメントはしていません。そして佐山は猪木率いる新団体UFОに参加し、小川直也に格闘系プロレスラーとしての教育を施したりしています。そこで(続)
>面白いのが、ある時期から前田の標的が佐山から猪木&小川に移っているのです。99年1・4のあの小川対橋本の一戦の後、UFОとリングスの対決が浮上し小川対山本(これまた何でヤマヨシと思ったものですが・・・^^;)の対戦が半ば内定したものの、土壇場で小川が右手負傷を理由に(続)
>回避、これに前田が「猪木さんはやはり信用できない」と激怒していたりします。さて、なぜ前田は標的を猪木&小川に移していたのか?ここから大胆な推論なのですが(笑)前田は前述の99年1・4小川対橋本を、恩師山本小鉄の作った世界を壊したものとして不快に思っていたのではないか?(続)
>それはセメントまがいに対応できない橋本が不甲斐ないには違いない。しかし橋本もまた山本小鉄が手塩にかけて育てた弟子であり、前田にしてみれば間接的後輩なのであって(92年に放映されたテレ朝系の格闘技特番で、橋本の「いつか前田さんと対戦したい」とのトンパチ発言に前田は笑顔を・続
>見せていたと記憶しています)、その橋本に代表される「小鉄さんが作った世界」を猪木自らが破壊するとは何ごとか、という思いが前田にはあったろうと思うのですね。そしてその思いは実は佐山と共通するものであったのでは。佐山もまた実際、小川対橋本の四カ月後にUFО離脱しているのです。(続
>佐山は小川を指導してきた者として「1・4事変」の仕掛人ではあった。しかし小鉄さんが作り上げた新日本の世界を壊してしまったことについてはやはり忸怩たるものがあったのではとも思うのです。表面上は「団体の方針への食い違い」であり、彼がそのあと創始した掣圏真陰流がらみの問題でも(続
>あったろう。しかし彼の格闘技への傾倒のきっかけとなったマーク・コステロ戦でセコンドについてくれた(https://www.youtube.com/watch?v=4FEYWr8yB3M)小鉄さんへの思いもまた、佐山の中にはあったろうと思うのですね。そういう共通の思いを持ちながら、しかし、彼らが対談という形で一部ながら雪解けを迎えるのはなんとその7年後(続)
>佐山が参院選落選(ありましたねw)&リアルジャパンプロレスリング設立を経、前田がリングス休止&HEROS参加&ビッグマウスラウド設立及び脱退(ありましたねえww)を経た2006年のことであります。http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2006/04/post_2.html 週刊文春で故・真樹日佐夫氏(続)
>仲介のすえ成り立った対談でしたが、二人の表情はまだまだ硬い(苦笑)。前田は佐山を詰問するような場面もありましたが、一方で修斗を離脱した際の佐山を擁護するような発言をして佐山が感謝する場面も見られたりします。この硬軟両面が見られた対談の2年後、二人は「藤原祭り2008」(続)
>のリング上で再会、何と前田が佐山に花束を渡す場面が見られたりしています。http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2008/12/fujiwara-festiv.html この2年の間に何があったのか? 言わずと知れた共通の恩師カール・ゴッチの死去・・・。佐山は80年に、前田は83年の帰国直前にそれぞれゴッチ宅を訪れ(続)
>指導を仰いでいます。共通の偉大なる師の逝去は、二人に今までの来し方を振り返り内省の機会を与えたのでしょうか。前田に至っては、もう一人の師・山本小鉄とともに共著をも出したりしています。http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%AD%82-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E5%B0%8F%E9%89%84/dp/4062154021 その出版の直前には新日本のイベントで(続)
>こんな微笑ましい場面も見られたりしました(笑)。https://www.youtube.com/watch?v=M6umKNFvxWQ しかしそんな蜜月の時間も短かった。その翌年には小鉄さんも逝去…。そして告別式に駆け付けた弔問客の筆頭に、この二人の名前が。http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/cat22277097/index.html (続)
>「前田日明 佐山聡」・・・・・・そしてその2年後、藤波辰爾のデビュー40周年大会のリング上で佐山・前田が並んで祝う姿が。http://battle-news.com/battle/2012/04/001150.php 「前田と佐山タイガーが肩を組みながら」「前田も佐山タイガーと共に拳を突き上げた」・・・ここまで来るのに(続)
>27年を要した。佐山と前田が出会ってから決裂までが8年、その修復に27年の歳月を要したのです。そしてその間にはゴッチ&小鉄さんという共通の師匠の退場が・・・今、二人がお互いに言及することも少なくなりました。しかしいつか二人が対談において共通の師匠たちを振り返り感謝する(続)
>そんな機会があってもいいと思うのです。それでこそすべての因縁が過去のものとなるのでは。そんな淡い期待を、二人の決裂から30年を経たこの日に書き留めておきたいと思います。長文にして駄文、まことに失礼いたしました。ではではまた。(この項了)
今や何を付け加えることもなし。両雄の次なる邂逅を心待ちにしつつ、筆を置きます。
ではではまた。