U−COSMOS25周年に君と。

本日50歳(!)を迎えたワタシが、その人生の折り返し地点すなわち25歳の誕生日に出会った第2次UWF東京ドーム大会を全39ツイートで語るという自己満足的企画でございます(笑)。


皆さましばらく(てか長らく・笑)駄文ツイート転載におつきあいを。



>本日、第2次UWF東京ドーム大会「U-COSMOS」から25周年。http://ja.wikipedia.org/wiki/U-COSMOS今回は本日50歳を迎えたワタクシめが、人生の折り返し地点で出会ったこの大会を一試合ずつレビューし、選手たちの「その後」を語ろうという無謀な試みですよ、お立合い(^^;・続




>(続)さて第1試合・・・と言いたいですが、まず「あるべきだった試合」から語りたい(笑)。ワタシはこの大会の第1試合は、この「欠場した選手同士の試合」であるべきだったと思うのですよ…それは「船木誠勝対田村潔(潔司)戦」!! 船木は練習中の事故で、田村はこの前月の前田との試合で(続)


>それぞれ負傷して欠場してるのですが、もし出場できてたならこの二人の試合で第1試合を飾ってほしかった。きっと熱い試合になったと思うのですが、おそらくは船木が先輩の貫録で圧勝したでありましょう…でも、だからこそやるべきだった!! やっておけば19年後のこの二人の総合ルールでの(続


>再戦にドラマが生まれたし、結果においても「船木圧勝⇒19年後田村恩返し圧勝」という劇的な形になったと思うのです。それを考えるとやはり惜しかった……もっとも、船木が出てたらスミスの相手になってたという話もあり、どっちにせよ田村戦はなかったかもなのですけどね(^^;;;)(続)




>(続)そして本来の第1試合、「中野龍雄(現・巽耀)対宮戸茂夫(現・優光)」結果は中野のスリーパー一本勝ち。しかしこの勝者と敗者のポジションがこの後逆転してしまうわけで(苦笑)。かつて博多男として人気を博した中野はこの後Uインターを経てフリーであちこちを渡り歩き、今は茨城を(続)


>中心に活動している(らしい)。一方の宮戸はいつの間にかUインターの中枢に入り込み、その全盛期を演出することに。インターの路線が破綻して新日本と提携するときにはそれには与せず、後に「UWFスネークピット」を設立し故ビル・ロビンソンを顧問に迎えてキャッチアズキャッチキャンの(続


>伝承を旗印に、独特の存在感を放つようになる…僕は中野の無骨さに比べ、宮戸の立ち回りの上手さがどうも鼻について好きになれなかった部分もあるのですが…しかし思えばスネークピットだってすでに15周年を迎えるわけで。何だかんだ言っても、自分の信じるところ…それがたとえ(続)


>プロレスファン時代からの勝手な思い入れだったとしても(考えてみれば宮戸氏はプロレス団体のツァー巡業を体験してないので、プロレス全体を語るのはおかしいのですが・苦笑)それを貫くことで得られるものは、やはりあるのだなあと。中野と宮戸、この二人のありようは「何かを貫く者」の(続


>それそれのありようを示しているような気もするのですね。「不器用さを貫く者」「信念を貫く者」という……少なくとも佐〇聡氏が修斗のジムを15年続けていたかと言うとw(←そんなことを言っちゃいかん^^;・この項続く)




>そして第2試合、安生洋二対チャンプア・ゲッソンリット。安生についてはかつて手厳しく書いたワタシですが(苦笑・http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20141114)しかしこの試合に関しては、やはり安生を絶賛せざるを得ない。後にK−1ヘビー級において唯一のムエタイ戦士として存在感を放った(続


>チャンプアに対し、中堅のポジションに甘んじていた安生が互角の戦いをしたのです、それもガチンコで!!(当時Uに厳しかったフルコンタクトカラテ誌でも絶賛されていた) 大会後に流されたTBSの特番では、帰ってきた安生を通路で藤原組長が抱きしめる場面が流され、この大会の名場面(続)


>として今でも記憶に残っています。しかし、この後の安生の戦いで、藤原組長が抱きしめたくなるような戦いがあったのだろうかと……。そして安生がこのチャンプアとの聖戦について語ることがほとんどないところにも、彼のどこか決定的jに欠如した部分を感じてしまうのですねえ、残念ながら…(続




>そして第3試合、「U-COSMOS」といえば必ずだれもが真っ先に思い出すだろう「鈴木みのるモーリス・スミス」・・・スミスはこの後K−1を経てパンクラスでの鈴木との再戦・再々戦、UFCヘビー級王者にもなり、リングスにも参戦と活躍の場を広げていきます。そして、鈴木はと(続)


>いえば、言うまでもなく…で終わってしまうのですが(苦笑)ここでは鈴木の現在よりも試合直後に注目したい。この試合、スミスの豪打の前に鈴木が戦意喪失と言う感じの玉砕KO負けを喫し、引き上げてきた傷心の鈴木に、何と他ならぬ前田が言い放ったというのですね。「お前逃げたやろ」…(続)


>これは鈴木自らがインタビューで語っているわけですが、その一言がまさに心中を言い当てられたもので、グサッときたと。そこからの反骨が、まさにその後の鈴木の格闘技指向そしてプロレス再転向後の徹底ぶりにもつながったと。「あの人に『逃げた』とはもう言わせない」…こうしてみると(続


>通路で藤原組長に抱きしめられた安生と、前田に「逃げたやろ」と言われた鈴木のどちらが幸福だったのか。別に組長が悪いわけじゃないけど(苦笑)。遂に格闘技もプロレスを極めえなかった安生と、格闘技に挫折しながらもそれを糧にしてプロレスで大成した鈴木、あざなえる縄のごとし…(^^;続




>そして第4試合、藤原組長対デイック(・レオン)・フライ。組長のスタンデイング・アキレスにより決まったこの試合、84年から始まった組長の遅咲きブレイクの集大成となった試合でもあった。東京ドーム6万人の観衆に見せつけるがごとく、立って大見得切ったアキレスで極めるなんざ、まさに(続)


>サブミッション・エンターテイナー藤原喜明の面目躍如であった。愛弟子・前高山にあえてラスト3試合は譲る形に自らを置いたのもいかにも組長らしい。・・・片やフライはこれが日本初登場。日本でのキャリアをまずまずの形で切ったが、後年のリングスでの活躍、そして現在(続)


>オランダマフィアの魔手を逃れて、わざと獄中に身を置いている(出獄した盟友ハンス・ナイマンは先日銃弾に散った・・・涙)現在の境遇を誰がこの時予想したであろうか・・・このテーマは次の試合にも引き継がれるんである・・・(続)




>そしてここから前高山登場(U‐cosmosは3人がトリプルメインを張った唯一無二の大会であったともいえる…)。第5試合、山崎一夫クリス・ドールマン。この年5月に前田戦を戦ったドールマン、その時の敗戦の屈辱を山崎相手に晴らすことになった(腕十字一本勝ち)。考えてみれば(続)


>道着を着てない相手(前田)に敗れた屈辱を今度は両者着用の状態で晴らすということなのだから、今回も前田兄さんが道着を着て対戦すべきなのですが(苦笑)、そこを負け役引き受けてしまうところが人のいい山ちゃんなのでした(^^;)。しかしその人の良さが彼をして新日本中継の(続)


>解説者にしたのだから、いったい何が救いになるか分からない(^^;)・・・一方のドールマン、後にUが解散した時に真っ先に前田に協力を宣言し、最後まで支えたのが彼でした。しかしその彼の誠実さに、日本人が(あえて前田兄さんが、とは言わない・苦笑)応えたのだろうか、と・・・(続


>今、オランダは風紀粛正のため格闘技が開催されない苦境にあえいでおり、先日のナイマンの悲劇もそれゆえとも思える(http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20141106/p1)。その中で、彼らの総帥ドールマンはどれだけの苦悩に今置かれているのだろうかと・・・それを思えば何ともいたたまれない(続


>かつて柳澤健氏「1976年のアントニオ猪木」の中で、盟友ルスカの悲運を思いやってドールマンは言いました。「ルスカはリハビリ中に転んで右手を2回も骨折した。(中略)人生は厳しく、はかない。そう思わないか?」…その最後の言葉を彼は今、自分自身に向けているのではないか、と…(続)




>そしてセミファイナル、高田延彦対デュアン・カズラスキー。高田の腕十字一本勝ちに終わったこの試合、実は井上譲二著「『つくりごと』の世界に生きて」の中で、5000ドルの報酬の元で行われたワーク試合だったことが暴露されている(http://d.hatena.ne.jp/Dersu/comment?date=20120721 続)


>もちろん他の試合も、おそらくは安生対チャンプア、鈴木対スミスを除けばワークだったのだろうけど。しかし、この井上氏の著作で試合後の控室でカズラスキーが悔し涙に暮れていたことが語られると、何とも言えない気分になってしまう。5000ドルは当時75万〜80万円というとこだった(続


>ろうか。ブッキングしたバーン・ガニアは通常のプロレス試合ワンマッチのつもりで契約したのだろうが、そんなはした金でアマチュア精神を(カズラスキーはアマレス五輪米国代表)売り渡したカズラスキーにはやはり後悔の念があったのだろうか、後に藤原組に参戦したりもするがやはり(続)


>生彩を欠いたと記憶する。一方の高田は説明するまでもあるまい。U分裂後、Uインターでの絶頂を経て経営悪化から新日本と提携、さらにそれも上手くいかず借金返済のためにヒクソンと戦い惨敗。それでもPRIDEの中枢に収まるもフジテレビショックにて団体崩壊、ハッスルでの「高田総統」(続


>怪演を経て、現在は芸能界に居残る形となる。まさに魑魅魍魎の中で辛酸をなめた高田。今、高田がカズラスキーに出会ったとしたら何と声をかけるのか。バツ悪げに黙って立ち去るのか、それとも「お前が味わったどころじゃない地獄を俺はくぐってきたんだよ!!」と言い放つのだろうかと……。(続




>そしていよいよメインイベント、前田日明対ウイリー・ウィルヘルム。しかし同じ「ウイリー」でも、後にリングスで戦ったウイリー・ウイリアムス戦ほどのドラマ性(「かつて極真に憧れた前田」という前提があっての)を感じさせることなく終わってしまった(前田のヒザ十字勝利)。(続)


>ウイルヘルムはリングス初年度にも参戦して前田と再戦しているが、そこでも返り討ちを許している。どこか「プロはこんなものか」みたいな悪悟りをしているような印象もあった。ちなみにパンクラスが旗揚げするとき、船木・鈴木がオランダにブッキングに行っているのだが、あえてウイルヘルム(続


>には声をかけなかったという話がある。ガチ前提での旗揚げ興行を行おうとしていたパンクラスにとって、かつて柔道世界選手権決勝を山下と争ったウイルヘルムは「ガチでやるには強すぎた」んである。80〜90キロ台の船木・鈴木に超重量級のウイルヘルムとのガチを望むのは酷であったろう…(続
(ブログ注・この「パンクラスがウイルヘルムに声をかけなかった」話は、パン旗揚げ会見直後の週刊ゴングの鈴木インタビューに基づいています。ウイルヘルムに声をかけたか?との記者の問いに対して、鈴木は「あれ(ウイルヘルム)は本当に強いんですよ」と語ってたと記憶・・・意味深ですやねえ、ある意味正直すぎる鈴木^^;;;)


>そして我らが前田日明・・・繰り返し言うが、前田のキャリアの中ではこの試合はことさら特筆すべきものの無い一戦である。むしろ、このイベントが行われた89年という年が前田にとってはどういう位置づけだったかを考えた方がいい。この89年、前田の戦績は何と「12戦全勝」なんである(続)


>前田の格闘プロレス人生において「無敗」という年は実は珍しい。誰かに星を譲ったり、またはケガのため欠場したりが必ずあるのが前田のキャリアであった。しかしこの89年は完璧なる全勝を飾って見せた。前田は明らかにこの年を自分のピークにしたかったんである。そしてあとは徐々に後進に(続


>星を譲っていくつもりであったと推察する。なぜか。自分の後継者を育てるために。……しかし、誰も前田日明の後継者にはなりえなかったんである。高田も、船木も、佐竹も、田村も、高阪も、みな前田のそばに来ては離れていった。その中には決裂して現在も修復されていない者、決裂したが今は(続


>修復されている者、決裂はしなかったが静かに距離を置いている者、さまざまであるが、いずれにせよ前田の後継者には誰もなりえなかったことには変わりない。それを考えれば、まさにU-COSMOSは前田の孤独なる頂点のイベントであったのだ。バブル絶頂期の時代において、その頂点を(続)


>極め、そしてやがてそこから静かに下りていく、そのターニングポイントになったイベントであったのである。・・・前田は今年格闘人生45周年のイベントを開くという。そこでは佐竹、船木らかつての盟友・後輩たちも集うという。しかしもちろんさらに人生は続いていく。前田も、そして僕らも。(続)


>そして前田の、Uというムーブメントに加わったすべての選手の、人生が寂しいものにならぬように。我々の人生にもかつての思い出が力を与えてくれますように。祈りながらU-COSMOSを振り返るこの稿を、この曲で閉じる…「コスモスに君と」。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm794375


>「コスモス空を駆け抜けて 祈りを今きみのもとへ  コスモス空を駆け抜けて 祈りを今きみのもとへ」・・・・・・Uに関わった全ての人々のもとへ、それを見続けた全ての人々のもとへ。祈りとともにこの稿を捧げます。 (この稿、了)




皆さま、ご読了ありがとうございました。


ではではまた。