天龍とアニマル・ウォリアーが語り合うべき、30年前のあの日。〜ザ・ロード・ウォリアーズ初来日30周年に寄せる。

本日3月9日は、30年前(1985年)新築の両国国技館初のプロレス興行において全日本プロレスに当時全米で熱狂的人気を得ていたザ・ロード・ウォリアーズが初登場、鶴田・天龍組とインターナショナルタッグ選手権試合を戦った日であります。


そこで、今回は以前に某電子書籍に掲載した原稿にいささか手を加えたものをご披露。
ご笑覧あれ。


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今、ザ・ロード・ウォリアーズといえばどういう印象を持って人々の記憶にとどめられているのだろうか?
おそらく伝説的な巨漢パワーファイターのタッグチームであり、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビと並び称される存在として記憶されているのではないだろうか。
しかしその実際はどうであったのだろうか?


ザ・ロード・ウォリアーズが日本で紹介されたのはテレビ東京系列で83年から流されていた名番組「世界のプロレス」の功績が大きい。当時、大学入りたてだった僕も「世界のプロレス」によって中高校生時代はあまりなじみがなかったアメリカンプロレスの世界にハマって大いに楽しんだものだ。
ただ、その興味の中心だったのはエリック兄弟やクリス・アダムスが活躍したWCCWであったりしたので、ロード・ウォリアーズ人気により84年くらいからその取り上げられ方がいささか少なくなってきていたのには不満があった。明らかにやられ役のレスラー(当時は「ジョバー」という言葉は知られてなかった)相手に秒殺を積み重ねていくウォリアーズの試合スタイルにどうにも違和感を持っていたのである。
しかしそれでも85年初頭にウォリアーズ来日の情報が流れると、やはりワクワクしたものだ。ウォリアーズがハンセン&ブロディの超獣コンビや鶴田・天龍と戦うとどうなるのか、と思えば期待するに決まっているではないか。


そして実際85年3月9日、冒頭で書いたように新築の両国国技館プロレスこけら落とし興行でウォリアーズ対鶴龍の対戦が行われた。
試合開始直後で、しかし僕らはある種の失望を味わうことになる。
それほど大きく感じられないのだ、ウォリアーズが。
ユーチューブでも「TV放送版ノーカット!3/3 全日本プロレス 鶴田天龍組vsロードウォリアーズ 両国国技館大会 1985年3月9日」の題名で上がっているので見ていただきたいものだが、ウォリアーズの体格はほぼ鶴龍と互角か、むしろ鶴田の方が背が高い分大きく見えてしまうくらいなのである。

https://www.youtube.com/watch?v=FD_jxwlY11o

そしてウォリアーズよりもはるかに当たりの強いハンセン&ブロディの猛撃を常時受けている鶴田・天龍はウォリアーズの攻撃を難なく受け止めており、むしろそのことに彼らが戸惑っている風でさえあるのだ。
一本目はまるで不意打ちのような形のラリアットでホークが鶴田から一本取る。しかしそのフォールの取り方も天龍が後ろから背中を蹴って通常なら放すべきところを強引に奪い取るようなフォールの奪い方であった。
そしてなぜ「強引に奪い取」らねばならなかったのかがインターバルの間に見えてくる。ユーチューブ映像3分10秒の時点を見ればわかるが、「一本取ったホークの方が息が上がっている」のである。
二本目(鶴田を羽交い絞めにしたホークがなぜか天龍の方を向いてしまい、天龍に押し倒された鶴田・ホークが重ね合わせで倒れこみそのまま鶴田が背中でフォール)三本目(「鶴田の方が肩がついていたではないか」とするウォリアーズ&エラリングがレフリー・ジョー樋口を暴行、反則負け)が最初から決められていたものなのか、それともアドリブで生じたものかは分からない。しかし少なくとも僕の目には「キャリアの浅いウォリアーズのボロが出ないための試合終了」に見えた、そのくらい両チームの格の差がハッキリ出てしまった一戦だったのである。
一本目から三本目(事実上開始される前の反則決着だが)まで全部足しても9分48秒という短時間の試合であった・・・。


正直な話、ハンセン&ブロディはおろか、当時新日本マットで勢威を振るっていたディック・マードックアドリアンアドニスよりもウォリアーズは下ではないのか。
スピーデイで豪快な試合により世間の目をプロレスに向けさせるのがウォリアーズの役目とは知りながら、そう思えた。
少なくとも1985年3月9日のザ・ロード・ウォリアーズは僕にとってそういう存在だったのである。


その12日後、85年3月21日にブルーザー・ブロディが新日本マットに現れる。
ベートーベン「運命」とツェッペリン「移民の歌」をつなぎ合わせた新日本バージョンテーマ曲とともに後楽園ホールに現れたブロディの姿を見た時、つくづくウォリアーズとブロディが全日本マットで相対峙しなくてよかったと思ったものだ。
もしそうなっていれば、ブロディはウォリアーズにセメントまがいの攻撃を仕掛けて、その権威を失墜させてから、移籍したのではないか(まあ実際にはウォリアーズ周辺にはその手のトラブルは皆無だったし、ブロディ自身もそうやたらセメントまがいを吹っ掛ける人ではなかったようだが、そうファンに思わせてしまうところがブロディならではである)。それこそ不幸にもブロディとわずかながらも全日本参戦時期が重なってしまった長州が、タッグでブロディに髪をつかまれボコボコにされたように(谷津と組んでの対ブロディ&ブルックス戦)。ブロディから見れば、ウォリアーズはわずかキャリア3年目の若僧チームに過ぎないのだから。


さて、全日本マットでのウォリアーズは成功したのだろうか?
残念ながらここでもあまりそうは思えない。ウォリアーズはこの後全日本マットでインタータッグタイトル戦4戦を戦っているが、長州・谷津組に反則負け、鶴龍にリングアウト勝ち(タイトル奪取)、鶴田・輪島組にリングアウト勝ち、鶴田・谷津に両者リングアウト&反則負けと一度もフォールによる完全決着勝ちを収めていない。結局ゲスト扱いのウォリアーズに対し、当時の日本のトップレスラーに完全決着めいたブックを組ませられるわけもなかったのだ。そして年末の花・世界最強タッグリーグにはスケジュールの関係もあって一度も参戦させていない・・・。


ウォリアーズが本格的にプロレスを学んだのはあるいは全日本を離れた後であったのかもしれない。
AWA・新日本・WWF(現WWE)を転々としたあとアニマル引退で一時解散、ホークは佐々木健介パワー・ウォリアー)と組みヘルレイザースを結成。さらにアニマル復帰で再結成後WWF→WCW→TNA→WWEと転戦する中で、自ずとレスリングの幅を広げていったのではないか。


しかしプロレスラーとしての成長が幸福な晩年へと結実することはなかった。ホークは2003年10月19日心臓発作による急死を遂げてしまうからである。享年46歳。
その死は肉体維持のために打ち続けたステロイドのためではないか、との取沙汰もされた。
デビュー当時から無理をしてトップを張り続けたそのツケが約20年後に訪れたとすれば、あまりにも哀しいではないか。
そして彼があの初来日時にフォールを奪い奪われたジャンボ鶴田は、肝臓移植手術失敗のため彼に先立つ3年前にやはり40代にしてこの世を去っていた。
思えばウォリアーズと鶴龍がインタータッグ戦において奪い奪われたフォールはこの二人の間でだけやりとりされたものだったのだ。


アニマル・ウォリアーは07年にパワー・ウォリアーと組んで闘龍門自主興行リングに上がり元気な姿を見せた。
また11年にウォリアーズ(リージョン・オブ・ドゥーム)としてWWEの殿堂入りを果たしたのを機に、翌年7月のスマックダウン&RAWに出演したりしている。
そして天龍源一郎は90年の全日本離脱後も精力的に活動を続け、ついに今年65歳にての年内引退を表明したのは記憶に新しい。


アニマルと天龍、この二人が今語り合うなら、あの30年前の試合の時の心境を、そしてそれぞれの他界したパートナーをどう語り合うのだろうか。
いやその語り合いは対談ではなく、それぞれの今は年老いてはいるがやはり逞しい肉体でなされるべきであろうか。
 

30年前の映像を見ながら、ふとそんな夢想を思い浮かべたりするのである。


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3年前に書いたものを、今回ウォリアーズ来日30周年&天龍引退決定を機に手を加えたため、いささかぎこちない文章になってしまったことをお許しあれ。


この文章を早逝したジャンボ鶴田ホーク・ウォリアーの鎮魂に、そして年内引退する天龍源一郎へのはなむけに贈ります。


ではではまた。