80年2月27日、猪木対ウィリー戦の行われた日に、藤原組長はどこにいたのか?

すべては表題の通り。そしてその答えから生じる妄想が主題であります(笑)。


以下、例によって駄文ツイート転載。


>本日、アントニオ猪木対ウイリー・ウイリアムスの異種格闘技戦https://www.youtube.com/watch?v=Qj_ZZ08yMxM)から35周年。梶原一騎中城健の「四角いジャングル」でプッシュされたこともあり、猪木の異種格闘技戦の中でも緊張感では最大級の一戦として記憶されている・・・で、この一戦が(続


>緊張感あるものとなったのは、場外での大山茂・添野義二ら極真勢のセコンドと新日本プロレス側のそれとのピリピリとした張りつめたものを我々が感じ取っていたからでもあり。そこで気になるのが、猪木のポリスマン(用心棒)としてペールワン戦やヨーロッパ遠征などで常に帯同させられていた(続


藤原喜明組長の存在ですね!! 組長はいったいどこにいたのか、最前線で極真勢に睨みをきかせていたのか・・・しかし、この一戦のビデオをいくら目を凝らして見ても、組長の存在を確認できないわけです。いったい、組長はどこにいたのか・・・この謎が解けたのが、2010年3月に発刊(続)


>された組長の著書「覚悟」においてであります。その117ページにこうある。「わたしがフロリダ州オデッサに住むゴッチさんのところにレスリングを教わりにいったのは一九八〇(昭和五十五年)一月十五日から六月十日までの五カ月間」・・・何と、ウィリー戦の行われた80年2月には組長は(続


ゴッチ道場にいた!! そりゃビデオを目凝らして見てもおらんわな(苦笑)。長年の謎がここで解けたわけです・・・しかし、ここでもう一つの謎が生まれる。なぜ本当に用心棒が欲しそうなこの時期に? 同書では、猪木さんが組長に褒美をやると言われて志願したのがゴッチ道場行きだったと(続)


>言うことになってはいますが、それにしてもなぜこの時期に、と・・・ここで僕の勝手な妄想。ハッキリ言ってしまえば「ウィリー戦のセコンドに組長を置いておくのは危険、と猪木さんが判断したのではないか?」と(笑)。誰よりもプロレスのリングに部外の人間が関わるのにイラつきそうな組長(続


>を極真勢と接するセコンドに置いておくのは危険すぎる・・・それゆえのゴッチ道場行きであったのはなかろうかと(笑)。いやもちろん今後も若手の指導を中心にやっていくだろう組長にゴッチテクニックの真髄を享受させようというのが主だったとは思いますよ。でも、それだけとも思えない(続


>何よりこの組長のゴッチ道場修行は「一度も米マットの試合に出ていない」ことにおいても特異なのであります。本来の意味の「修行」ならありうべき試合を一度もブッキングせずに、ただひたすらゴッチ道場での修行に専念させる・・・これもまた「修行」以上に「敬遠」の意味が組長のゴッチ道場(続


>行きには強かったのではないか、と僕には思えてしまうのであります(妄想強・笑)・・・さて、組長のゴッチ道場修行に途中から合流したヒトがもう一人いますね。そう、メキシコ遠征を終えたばかりの佐山サトル、後の初代タイガーマスクであります!! 佐山は3月からゴッチ道場に合流して(続)


>ますが考えてみれば猪木対ウィリーのセコンドには藤原&佐山と言うU系きっての武闘派がいなかったと…もしそのセコンドに藤原組長&佐山がいて更に当時まだ21歳の前田らが触発されていれば…どんな修羅場が展開(汗)。これまた歴史のイフがもたらす恐怖もといロマンなのでありました(^^;



「そこにいなかったはずの人物がもしいたら」・・・
これはもうプロレスに限らず、すべての歴史における妄想の王道でございますね(^^)。


ではではまた。