あまりにも凄すぎる手塚伝説。


たけくまメモに再掲載されてた手塚治虫大先生の逸話が面白すぎるんで、ここにアップ。まあ明らかに手抜き日記なんだけど(笑)。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_8eda.html

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2004/12/post_22.html


●手塚が戦中戦後にかけて医者の勉強をしていたことは有名だが、医者を断念した理由は担当教官から「君はこのまま医者になっても必ず患者を殺すから、悪いことはいわん、漫画家になりたまえ」と忠告を受けたこと。授業中、ずっとマンガを描いていたのがバレていたのだ。

●歴史上、最初に長者番付に載ったマンガ家は手塚治虫(昭和29年)。一躍マスコミの寵児となるが、雑誌記者がトキワ荘に手塚を訪ねると、そのあまりの質素な暮らしぶりに仰天した。「百万長者の家は、スキマ風の吹くオンボロアパート」と面白おかしく書き立てられ、プライドを刺激された手塚は、部屋を藤子不二雄にゆずって別の新築アパートに転居。ここにステレオやテレビ、はてはグランドピアノ(※註)まで持ち込んだが、仕事をするスペースがなくなってしまい、ピアノの下に腹這いになって原稿を描いたという。

●手塚は悦子夫人との婚約時代、年に3回しかデートができないほど多忙だった。しかもデート中、ほとんど居眠りをしていた。

●死ぬまで多忙だった手塚は、夫人との30年におよぶ結婚生活で、一緒にいられた時間はトータル1年半くらいだったと言われる。「よくお子さんを三人も作る時間がありましたね」と知人からつっこまれたが、手塚は「あんなの五分あればできますよ」と答えた。

●手塚といえばベレー帽。若い頃は天然パーマをごまかすためのものだったが、かぶり続けて毛が抜け、40代からは事実上のカツラがわりだった。

●また手塚は甘い物が好きで重度の虫歯になり、50代には総入れ歯になっていた。これをよくどこかに置き忘れ、そのたびに家族やアシスタント一同で社内を探し回った。

●あるときアシスタントたちと社員旅行に行くことになったが、旅行当日に手塚の入れ歯が紛失し、「入れ歯がないとボクは行けない!」と駄々をこねはじめた。

●またTV出演が決まっている日、やはり手塚の入れ歯がなくなった。社員でゴミ箱まで探したが見つからず、手塚は風邪をひいたことにしてマスクをつけて出演した。

●手塚の長トイレは有名で、最長二時間半の記録がある。トイレが、一番いいアイデアが浮かぶというのがその理由。

高田馬場手塚プロがあった時期、手塚の仕事部屋は奥さん以外は誰も立ち入れない禁断の部屋となっていた。編集者もアシスタントも玄関までしか入れない。ある夏の日、アシスタントが先生に呼ばれて玄関まで行くと、ステテコ姿で上半身裸の先生が現れ、「こんな格好でごめんね」と言って片手で原稿を渡してきた。もう片方の手は、しっかり乳首を隠していた。

手塚プロ出身の漫画家・石坂啓は、禁断の部屋に入ったことがあるが、冷蔵庫にゴキブリホイホイが組み立てた状態で入っているのを見つけて仰天したという。

(※註)実際にはグランドピアノではなく、アップライト型だったようです(当時、現場を目撃したマンガ家・長谷邦夫氏のご指摘)。ただいずれにせよ、普通の六畳間にピアノとベッドと机があったので、ものすごく狭かったことには違いないです(12月20日訂正)。

●50年代の全盛期、手塚の担当編集者は月はじめにくじ引きをして原稿をもらう順番を決めた。なぜこうなったかというと、締め切りが重なると各社の手塚番が殴り合いのケンカをはじめるからである。

●手塚流言い訳(その1) ある日、先生が部屋で寝ているので編集者が起こしたら、「ボクは寝てませんよ。横になって眠気をとってただけです」と言い張った。

●言い訳(その2) 小松左京との対談場所に手塚は4時間も遅刻した。そのときの言い訳が「ニュースニュース! ちょうど大阪空港で飛行機が爆発してねえ…」

●言い訳(その3) あるとき、先生の原稿があまりに遅く、ついに入稿が間に合わないことがあった。一週間以上、仕事場に泊まり込みで原稿を待っていた編集がブチ切れて「もう間に合わねえよ!」と怒鳴り、原稿を窓から放り投げた。すると手塚は涙を流しながら「ボクだって大学出てるんだから!」とわけのわからないことを叫んだ。

●手塚はよく原稿を編集に見せて相談した。ある編集は、とにかく早くあげてもらいたい一心で「いやあ面白いですねえ」とお世辞を使ったら、「こんなの面白いわけないじゃないか!」といきなり怒鳴って原稿を破きはじめた。

●手塚は執筆中、アイデアに詰まると、アシスタントに無理難題を言って時間をかせぐ癖があった。あるときなど「スクリーントーンを全部手で描きなさい」と指示したことも。アシスタントは黙々と一晩かけて細かい網点を全部描いたという。

●ファックスのない時代、手塚は海外から原稿の背景をアシスタントに電話で指定することがあった。どうやるかというと、原稿用の紙に3ミリ間隔で升目を引き、タテ・ヨコの線にそれぞれ番号をふる。そのうえで、「Aの15」というように線が交差するところに点を打つのである。この点を結ぶと見事な絵になったという。ただし、電話料金で原稿料はすべて飛んだ。

●手塚は石ノ森章太郎の結婚式で仲人を引き受けたが、締め切りに間に合わず、肝心の結婚式をすっぽかした。石ノ森が周囲の編集者にぼやくと、編集は全員「そりゃ、あの先生に仲人を頼んだ石森さんが悪い」と口をそろえた。

●手塚は締め切り間際によく雲隠れしたが、ある日いつも隠れ家にしているホテルに行くと、支配人から出入り禁止を言い渡された。手塚の知らないうちに編集者が乗り込んできて、「手塚いるか!」と全部のドアをたたいて回ったかららしい。

●地方に逃げたときは、旅館で編集が身柄を確保し、アシが総出で新幹線や航空機で一枚づつ原稿をピストン輸送することもあった。

●手塚の逃走癖は晩年まで直らなかったが、編集が後を追ってあるトンカツ屋で発見した。「先生!」と叫ぶと手塚は他の客が見ている前で、テーブルの下に身を隠した。

●ある作品で手塚は電車のシーンを描いたが、それは車内中央に鉄のポールが立っている、戦後まもなくの電車の絵だった。編集者が「こんな電車、もうどこにも走ってませんよ」と手塚に注意すると、手塚は「ボクはもう20年、電車に乗ってないんです!」と激昂、「取材」と称して電車に乗ってどこかに言ってしまった。

●手塚は編集者の気配に敏感で、外にいることを察すると部屋の明かりを消す癖があった。ある編集者が深夜、タクシーで手塚の屋敷に行くと、門の前でいきなり屋敷中の電灯が、庭の明かりまで消えて仰天したという。どうやらブレーカーを全部落としたらしい。

手塚プロはその後、埼玉県新座市の中古ビルに転居したが、手塚がこのビルを気に入った理由は、部屋から直接外の非常階段につながっている構造で、編集の目を逃れて脱出できるからだった。

●新しく手塚番になる編集者には、編集長から「常にパスポートと数十万の現金を用意しておけ」と言われたという。先生がふっとトイレに行くふりをして、海外まで逃げることがあったからである。

●手塚はディズニーの「白雪姫」を50回、「バンビ」を80回以上観ている。ビデオのない時代、彼は町の連れ込み宿に一人で泊まり込んで、毎日、パンを持って朝一番で映画館に駆け込み、最終回まで居座ってこの記録を達成した。

●手塚が最初に8ミリで作った自主制作アニメは、なんと男女の交合を描いたポルノ作品。本人の証言がある事実であるが、もちろんどこにも発表されていない。

●日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」は空前のヒットとなったが、あまりに多忙になったため手塚はキレて「労働組合を作ろう」と言い出した。社長は自分だということを忘れていたのだ。

虫プロ倒産後も、手塚はマンガで得た収入を惜しげもなくアニメに注ぎ込んだ。理由を聞かれると、「マンガは本妻、アニメは愛人。愛人にはいくら金がかかってもしかたがない」と答えた。

●NTVの24時間テレビで2時間アニメ「バンダーブック」を作ったとき、作品は好評だったが手塚は放映終了後も気に入らないシーンを直していた。まだビデオで商品にする発想のない時代で、金をどぶに捨てるようなものだった。

●同じく24時間テレビで「マリンエクスプレス」(註・これは「フウムーン」が正しいかも。下のコメント欄参照)を作ったとき、テレビで放映している最中に手塚はまだ絵コンテを切っていたという嘘のような本当の話がある。スタッフは、コンテがどうせあがらないとわかっていたので、監督の手塚に内緒で作品を完成させていたのだ。

●手塚がスタンリー・キューブリックから『2001年宇宙の旅』の美術デザイナーとしてオファーを受けたことは有名である。だがそのとき、手塚は虫プロ経営で大変な時期で、「残念ですが、ボクには260人ほど食わせねばならない責任があるので」と、せっかくの申し出を断った。するとキューブリックから「そんなにたくさんのご家族がいるとは知りませんでした。それはさぞかし大変でしょう」と返事が届いた。キューブリックは、手塚に本当に260人も家族がいると誤解したのだ。

大友克洋が初めて手塚と会ったとき、手塚はいきなり「ボクは君の絵、虫メガネで見たけどどこもデッサンが狂ってないね。でもボク、君の絵だったら描けるんだよ」と言って大友をあきれさせた。



いやあ面白すぎる!!! 僕も居眠り見つかったら「突っ伏して眠気をとってただけです!!」とか言ってみたいものです。まず間違いなくクビになるか僻地に飛ばされるかだと思うけど(笑)。ではではまた。