中邑真輔の凱旋快挙は、47年前の猪木対ドリーの「続き」である。

ども、ノアでの鈴木みのるシングル2連戦合計70分(http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2016/12/post-701e.html)についても語りたいと思ったのですが、今回はこれ。


「12月・大阪」からドンドン妄想が加速していきました(笑)。
以下、例によって駄文ツイート転載、ご笑覧あれ(^^)。


WWE・NXT、12・3大阪大会!ナカムラNXT王座奪還!アスカNXT女子王座防衛!blog.livedoor.jp/nepstleblog/ar… まずは中邑のNXT王座奪還をことほぐ。転落した時はあれれ、という感じだったけど、こっちで奪回という流れだったか(笑)。そしてこの一年、


>「2016年の中邑真輔」が積み上げてきたものは、今年初頭に新日本離脱してショックを与えてしまったファンへの不義理を補って余りあるものでなかったか。不詳ワタクシふるきちは2年半前にして「中邑真輔よ泰平新日本の中で前髪垂らした独眼竜政宗であれ」http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20140522/p1というコラムを(続


>書いていたものですが、今回のこれは伊達政宗が欧州に攻め込んで戦利品をたっぷり得て帰ってきたようなものなんである(笑)。こうしてみると、移籍当初「本隊に食い込めねば意味がない」と思っていたボンクラ頭のワタシでも「NXTという自治区を得たのだからこれはこれでいいではないか」


>と思えてくるから不思議である(笑)。NXTのNは「ニッポン」のNなのだw(強引・苦笑)。実際、本体に食い込まされてまだまだ英語不慣れな弱点をさらけ出すよりは今の状況の方が何ぼかいい(笑)。そしてこのNXT自治区獲得は、変形したとはいえアントニオ猪木から中邑が受け継いだ


>「ストロングスタイル」の勝利でもあるのだ。考えてもみるがいい、「12月・大阪」といえば、猪木ストロングスタイルの原点の一つ対ドリー・ファンク・ジュニア戦の舞台ではないか!!(笑)60分フルタイムの末にコブラツイストを掛けながら世界を逃さざるを得なかった猪木の無念を


>後進が受け継いだ末に「2016年の中邑真輔」の凱旋快挙があるのだ(さらに「12月」に絞れば、ドリー戦の10年後、ボブ・バックランドからWWF王座を奪いながら6日後に返さざるを得なかった、すなわち馬場を「NWA王座の1週間レンタル」と揶揄しながら、結局は同じ轍を踏まざるを


>得なかった、あの無念を一部晴らしたともいえる)。今頃、猪木さん(2010年WWE殿堂入り)も「やるじゃねえか、ムフフフフ」と喜んでくれてるのではないかと(笑)。さらには大阪と言えば、あのクイックキックリー格闘王の地元でもある(笑)。「中邑たいしたもんやが、俺はМSGで


>戴冠したで!」と某兄さんが葉巻くわえて自慢すれば、「アキラ、あの王座は僕が正統だから!それに僕は防衛戦たくさんやってるし、ジュニアではサーキットもしてるし! ハハッハハッ!!(笑い声でなく独特の息遣いでw)」とこれも殿堂入り炎の飛龍辰っつあんも割って入り、さらには「ジュニア王座でサーキットは僕もやってますよお!それから


>大阪で王座奪回はブラック相手の僕が先だから!!」と虎仮面のあの人もAED持参で割って入ったりするんであるw(←おい^^;)さらには大阪と言えば、この13日に10周忌を迎えられる自称「大阪のバカ」I編集長も・・・「中邑という独眼竜が海外で花開いた、これは編集長としても


>うれしい誤算やおまへんか?」「たしかに快挙だが、中邑のボマイエはキンシャサに名称変更させられた。猪木・アリの友情のあかしと言っていいボンバイエ、ボマイエよりも、やはりアメリカ人はアリ単独の幻想・キンシャサの奇跡に思い入れがある。それと同じで、NXTもいつまで日本人


>ブランドであり得るか…」「いつか中邑は戻ってくるんでっか?」「すべては時間という魔術師のなせる業…」・・・I編集長の嵐山トークを夢想しながら(笑)今はとにかく中邑の快挙を讃えよう。そしていつか中邑が戻ってくるその時、その「場」がきちんと存在していますように。(この稿了)


ちなみに辰っつあんの「ハハッハハッ!!」はブログで付け加えました(笑)。


最後に、ここに出てきた(または出てきていない)すべてのストロングスタイルの継承者たちにこの一文を捧げます。


ではではまた。

カール・ゴッチは水木しげるである。

ども、最近は某連載への小難しい反論記事が多くなってしまい、すっかり辛気臭くなってるので、とたんにこんなバカ記事書きたくなったふるきちです(笑)。


別に「水木しげるカール・ゴッチである」でも良かったんだけど、このダメブログを見に来られるのはプロレスファンが大半だろうとも思い、こちらの題名にしてしまうのでした(笑)。


以下、駄文ツイート転載、ご笑覧あれ。


>明日は水木しげる先生1周忌なのですが、最近ワタシは「水木しげるカール・ゴッチ」という新説を生み出したのでご報告(笑)。根拠その1・「巨大なる傍流」であったこと。手塚治虫力道山ルー・テーズという主流では決してなかったが、傍流として日本の漫画界&プロレス界に巨大なる流れを


>生み出した。根拠その2・ともに戦時中の悲惨な体験がある。水木先生の南方での戦争体験はよく知られているが、ゴッチさんも第2次大戦中にナチスの収容所に合計3年近く入れられている(ゴッチさんが実はベルギー人であることも関係してたか?)。また水木先生もゴッチさんもその頃左手に


>重大な障害を負っている。水木先生は爆撃で左腕そのものを失い、ゴッチさんは強制労働中の事故で左手の小指を失っている(もっともこれについては収容所に入れられる前の港湾関係の労働での事故ともいわれる)。根拠その3・非常な遅咲きである。水木先生は復員後1951年に29歳で


>紙芝居作家デビュー、57年に35歳で貸本作家デビュー、月刊「ガロ」で雑誌漫画本格デビューするのは64年42歳からである。ゴッチさんはロンドン五輪出た後50年に26歳でプロレスデビュー、59年に35歳で米国マットデビュー、テーズのNWA王座に初挑戦するのは63年39歳の時……


>ね、似てるでしょ?(笑)実は年齢も二つしか違わない(水木先生1922年生まれ、ゴッチさんは24年生まれ)。そしてこのご両者、61年に大きな転機を迎えている。その61年に水木さんはかの「ゲゲゲの女房」布枝さんと結婚、人生の伴侶を得る。そして同年、ゴッチさんは…そう、初来日!


>ゴッチさんが吉村道明相手に本邦初のジャーマンスープレックスを見舞った初来日が、まさにその61年だったのですね。そしてその5年後、水木先生&ゴッチさんにさらなる転機がやってくる。66年に水木先生が水木プロダクション設立、そして同じ年にゴッチさん再来日さらに・・・日プロの


>レスラーたち(グレート小鹿山本小鉄ら)を生徒に、日本でのゴッチ教室初開講!! 水木プロダクションとゴッチ教室が同じ年にスタートしてるってのがもはや因縁を感じませんかとw(まあゴッチ教室がリキパレスの道場で常駐開講されるのは翌年のことですが^^;)そして遅咲きの水木先生


>が代表作「ゲゲゲの鬼太郎」(当初「墓場の鬼太郎」)のアニメ化によりブレイクするのが68年、そしてゴッチさんの「最高傑作」アントニオ猪木がワールドリーグ戦で初優勝しブレイクを果たすのが69年、ここでも符合!(猪木さんはもう人間以外のものw)「鬼太郎」も猪木さんも創造主の


>手を離れて独り歩きしていく(「鬼太郎」のアニメは水木先生は主題歌作詞くらいしかタッチしてないですしね。ある意味「鬼太郎のアニメ化」は「猪木さんの異種格闘技戦」のようなものであったかも・^^;)のも含めて、「60年代末の代表作ブレイク」という点でも水木先生とゴッチさんは


>一致するわけであります。経歴合わせが長くなってしまいましたが・・・ホントはこれが一番大事な根拠その4「見えないものを信じ続けた」。水木先生といえば「妖怪」の存在を信じ身近にそれを感じることの大事さを説き続けたことで知られるわけですが・・・実は「妖怪が見える」とは


>水木先生はほとんど発言しておられない。「感じることはある」とはおっしゃってるけど(「ニューギニアの奥地でぬり壁を感じた」とか)。むしろ「見えないものを見ようとする」ことが大事だと言っておられる。それってのは実はゴッチさんも同じなのですね。サブミッションの大事さ、シュート


>技術の大事さを説き続けたゴッチさんですが、実はリング上で「サブミッションにより相手の腕をへし折った」なんて記録は正確には見たことがない。グレート・アントニオをリング上で、バディ・ロジャースを控室でそれぞれリンチしたって話は無論あるけど、正直サブミッションと関係ないしw


>しかしゴッチさんの業績にとってそれは何の瑕疵にもならない。なぜならそのシュート思想(プロレスラーは常に「それ」を携えた上でリング上の闘いを演じねばならない、という)によって多くの弟子を惹きつけ、彼らの戦いを見るプロレスファンに「強さ」の説得力を与えてくれたのだから。


>水木先生の妖怪幻想&ゴッチさんのシュート思想、どちらもが読者・ファンに「じっと目を凝らさねば見えないものがある」ことを教えてくれたのだ。それは日常で垂れ流されているもの以外のどこかに何かがある、ということでもある。ここではないどこかに。それを与えてくれたご両者に僕らは


>もう一度感謝を捧げねばならないと思うのですよ……それにしても水木先生とゴッチさんの対談がなされなかったのは、今もって残念(笑)。ゴッチさんに会った後の水木先生、きっと「あれはドイツの妖怪ですよ、ワタシには分かるんです!!」「水木先生、ゴッチさんはベルギー人なんですが…」


>「そんなことは問題ではアリマセン、アントワープとハンバーグなんて近いもんです!!」「(ハンブルグって言いたいんだろうな・・・)」なんていう楽しいお言葉が聞けたのではないかと思うと、残念ではあります(^^;)。ではではまたー。(この稿了)


ブログのみの追記。
水木先生&ゴッチさんともに晩年は隠居していたようなイメージがありますが、実際には水木先生は亡くなる前年2014年にもビッグコミック誌に新連載「わたしの日々」を始めており、また亡くなった2015年にも「怪」誌に絵物語水木しげる×小泉八雲」の連載を始め、3回目まで描いておられました。
そしてゴッチさんも、そりゃプロレスラーとしては82年の藤原&木戸とのエキシビションが最後でしたけど(苦笑)後進への指導は続け、そして亡くなった2007年にはキャッチレスリングのトーナメントを企画、ルール設定にも携わり、実際、逝去4か月後の11月にロサンゼルス郊外のサンタモニカ高校ジムにて大会は開催されたのでした・・・(ちなみに翌年2月にこの大会をNumber誌掲載ノンフィクション「カール・ゴッチの生涯」で紹介してたのが、ほかならぬ「柳澤健」氏であります・^^)。
まさにLife is movement.(生きるとは動き続けることだ)−−−カール・ゴッチ


そしてもう一つ、お二人の共通点を思い出しました。
二人とも、別名の人生を生き抜いたこと。
武良(むら)茂氏は「水木しげる」としての人生を。
カール・イスタス氏は「カール・ゴッチ」としての人生を。


本名のままでは生き得なかった人生を、お二人ともに見事に演じ、生き抜いたのだと思います。
偉大なる二人の人生に、敬礼。


ではではではまた。

「1984年のUWF」フロント偏重視点への疑問。

どうも、すっかり柳澤健1984年のUWF」への批判急先鋒みたいな立場になってしまったふるきちです(苦笑)。


まあ批判だけじゃなくって、一番しっかり向き合ってるとの自負もありますがね(笑)。
あたかもアントニオ猪木に対する前田日明のようなw(←明らかに言いすぎ・^^;)


今回は第23回「崩壊」。
例によって駄文ツイート転載、以下乱筆乱文お許しあれ。


>「1984年のUWF」第23回「崩壊」を読む。うーん、何というか…やはり違和感を持ってしまうのが、《ここまでUに所属していた選手には一切インタビューしていない柳澤氏が、Uのフロント部には積極的にインタビューしている》んである。U所属選手にインタビューしないという方針は本当に


>徹底していて、あれほどプッシュしている佐山でさえ過去の発言しか引用してないんである。それはそれで客観性を保つという意味では有効であろう(とても客観的な論旨になっているとは思い難いのだが・苦笑)。しかしフロント畑にいた人間に対してはドンドン現在進行形の言葉を引用


>してしまうので、どうしても「フロントサイド>選手サイド」の印象を与えてしまうのである。そしてそのフロントサイドからの一方的情報を丸のみしてしまうと、「前田日明の疑心暗鬼がU崩壊の要因」となるのではあるが、その疑心暗鬼も冷静に考えれば「無理もない」と思えてしまうんである。



>まず、これは本文でも書かれているが「前田はUのわずかな株しか渡されていなかった」ということ。選手とフロントをきっちり分けるというおそらくは新日本とアントンハイセルの悪しき前例を反面教師とした前田の判断によるものだったろうが、フロントの経理事情が不安になった時「自分には


>株を背景にした発言力がない」ということを前田が不安に思うのはむしろ当然ではないのか。そしてそれを防ぐには、選手代表格として前田に会社株の3分の1から4分の1くらいは渡すべきではなかったか(あくまでも素人考えだけど・苦笑)。そして前田の帳簿公開要求には一切応じず


>「前田に冷静になってもらうため」5か月間の出場停止処分を言い渡すんである。果たしてそれは「正当」なのか? 読者は柳澤氏の文章によって「なるほどフロントの言い分はもっともだ、前田が悪い」となってしまうかもしれない。しかし表面に出ている事実は「前田にわずかな株しか渡さず」


>「前田の帳簿公開要求は(結果的に)拒否し」「(冷静になってもらうために?)5か月の出場停止処分を課した」のである。おそらく神&鈴木には思われてるほどの不正はなかったのだろう。しかしそれにしたって、これがはたして適切な処置だったのか? もっと良い手段があったのではないか?


>柳澤氏はそういう「検証」をせずに、ただひたすらフロント畑の人間の言い分だけを垂れ流すんである。まさにジェラルド・ゴルドーの時と同じように。それが本当に正しい書きようなのか、と僕は言いたいのだ。さらにはここでは神新二氏の「その後」については一切書かれていない。あたかも


>「清廉なるがために業界から身を引き、沈黙を保ってるのだ」と言いたげに。しかし「神新二 アゴラシステム」で検索してみれば、神氏の「その後」が相当あやしいものであることが分かってしまう(苦笑)。そういう都合の悪いものは排除して書かない、というやり方は、「ジェラルド・ゴルドー


中井祐樹氏の目をくりぬいた」ことには触れない、のとこれまた同じなんである。そして今回の骨法・堀辺正史氏についても・・・。堀辺骨法をあたかも実戦的格闘技の代表のごとく書いてしまう今回だが、堀辺氏の経歴が相当に怪しいことは、氏の著作を検証してみればいくらでも分かること


>なのだが、そういうことには無論触れない。そもそも「掌打」を「掌底」と混同してることでも骨法に対する基本知識がなってないとしか思えない。骨法の掌打はこれ⇒http://www.nicovideo.jp/watch/1401856988 https://www.nicovideo.jp/watch/1401856988 空手における掌底はこれ⇒https://www.youtube.com/watch?v=ykKHaLfrkyw


>おそらく柳澤氏は骨法がリアルタイムで話題になってた時のことは知らないのだろう。いや、それだけでなく後追いで知識を得たがためにきわめて一方的な認識になってしまってるところが、柳澤氏の文章にはありはしないかと思ってしまうのである・・・今回のラストで、神新二の思念として


>(この神新二の思念も、本人が直接語ったことでなく又聞きもしくは柳澤氏の想像であるところも何ともはやなのだが・苦笑)こう語らせている。「UWFは、選手、フロント、ファンすべての人間の心の中に存在する。自分たちにとっての真実が、選手から見ればそうでないこともあるだろう」


>その言葉は、そのまま柳澤氏自身に返ってきはしないかと思ってしまうんである(苦笑)。そしてその言葉は、「1984年のUWF」を読む読者も心しておくべきであろう。「柳澤氏にとっての真実が、我々から見ればそうでないこともあるだろう」・・・自戒をも込めて。ではでは。(この稿了)



次回はもちろん「U解散」が描かれるのでしょうな。
さてどう描かれるか・・・期待と不安、二つ我にあり(笑)。


ではではではまた。

藤原組長と鈴木みのる、恩讐の30年。

U系における一組の師弟のエピソードとして。

例によって駄文ツイート連投転載。ご笑覧あれ。


>25年前の本日、藤原組での藤原組長と鈴木みのるの対戦がドローに終わる。この一戦を見た時かなりに驚いたのが、組長が完全に鈴木にグラウンドで押されてたんである。少なくとも後発の世代の選手に、組長がグラウンドで劣勢に立つのを見るのは(勝敗は別として)初めてだった。終盤だったと思う


>が、鈴木がスリーパーをかけ組長がなすすべもないのに対し、鈴木も落とすことが出来ず(理由は書くまでもない…)哀し気に叫び声を上げていたのが印象に残っている。「こんなもんじゃないだろう!?」「こんなもんだったのかよ、藤原さん!!」と言っているようで……この一戦の後も鈴木は


>組長に再戦を迫り続けるが、組長はそれを避け続けた。藤原組長のキャリアの中で数少ない汚点に思えるが、一方で20年間磨き続けた寝技の匠が、たとえ教え子とはいえ(いや教え子だからこそ)抜かれたのを認めたくないとの思いが先に立ってしまったのだと考えれば、責められない思いもする


>んである…結局、正面切って両者が再戦し、きっちり組長が敗れたのは実に15年後のことであった。 勝ち名乗りを受け、コーナーに下がった鈴木の胸中に浮かんだのは、この日々であったかも…。 


>ちなみにこちらは一昨年に週刊プロレス誌上で行われた藤原・鈴木対談。全ての恩讐を超えて……。http://p.twipple.jp/F9INL


さらにちなみに、来年で藤原・鈴木が出会って(すなわち初めてスパーリングして)30周年なんであります。

ではではまた。

柳澤健「1984年のUWF」で行われている意図的な時間的情報操作について。

どうも、日本で最も「1984年のUWF」という文字をツイッターで連発している男、ふるきちです(笑)。


Numberの売り上げと先々の単行本宣伝に協力してるつもりですが、柳澤健さんが抗議してこられたら、即座に謝罪する用意があります!! 消さんけど(笑)。


後はとにかく駄文連発ツイートの通り。以下、乱筆乱文お許しあれ。



>Number連載「1984年のUWF」、改めて考えるに「前田らは佐山のアイデアをパクって世間的成功を収めた」と言い立てるため、思い切り時間的情報操作を行っているのだなあと……はっきり言ってしまえば「第一次UWFと第二次UWF時代の間にある新日本提携時代を思い切り端折った」


>んである。なぜか。「1984年のUWF」においては「前田らの成功は佐山理念をパクったからだ」というのを徹底させたいがためである。しかし実際にはそうではない。前田UWFの成功は、その再旗揚げの前時点で「弱小UWFを率いて強大な新日本プロレスに立ち向かい、アンドレ戦や


>ニールセン戦を乗り切った前田日明」というのがファンの間に刷り込まれていて、それが新生Uの大いなる助走となったわけで。ところが「1984年のUWF」ではそのあたりを故意に過小評価しているのだ。その証拠に第1次U84・85年の2年間については第6回「ユニバーサル」から


>第16回「訣別」に至るまで実に11回を費やしている。ところが前田の名勝負が積み重ねられた新日本提携時代86・87年の2年間については何と第17回「新・格闘王」1回のみでしか描かれてないのだ(!)。アンドレ戦も藤波戦もニールセン戦も長州蹴撃事件も全部たった1回に押し込めた


>のである。なぜそんな操作がなされねばならなかったのか?答えはハッキリしている。無視したかったからである。邪魔に思えたからである。「前田らの成功は佐山理念のパクリによるもの」という「1984年のUWF」の論旨には、「1986年の前田日明」のリング内外での戦いと人気浮上は


>きわめて不都合なものでしかなかったのだ。そうとしか思えないんである……しかし実際には佐山の編み出したUスタイルそのものが大衆に受け入れられたのではない。それは皮肉にも、今回の第21回「クリス・ドールマン」のラストで描かれている「(89年5月大阪大会において)数千枚の


>招待券がばらまかれていた」……これ自体が「佐山理念の限界」を示しているではないか、皮肉なことに。第2次Uのブレイクはその前段階での前田人気の急騰が背景にあったのであって、それが落ち着いてしまえば必然的にU人気も落ち着く運命にあったのである。決して佐山理念をパクったため


>ではなかったであろう(ちなみに今回第21回において「1か月に1度、大都市のみで興行を行うというやり方も、すべてユニバーサルの時に佐山が考え出したものだ」と書いているのは明らかに柳澤氏の誤認。第1次Uは「3週間に5試合」が最終形態だったのであって、「1か月に1回」は


>神社長ら第2次Uスタッフが生み出したもの)。あまりにも現時点での「1984年のUWF」は「まずU批判ありき」が前提でありすぎる(もちろんそこには第2次Uでの前田の練習不足指摘など、見るべきものもあるのだが)。その中でまたターザン山本が「(Uのレスラーは)金と女にしか


>興味がなかった」などと論拠不足のディスりを繰り返すのだから何ともはや(苦笑)。G馬場・田中八郎・大仁田らから裏金をもらって誌面に反映させただの、20人以上の女性のヒモになっているだのウィキに書かれているターザンが何を言うのかとも(苦笑)。しかし、以前の著作からすでに


>ターザンの影響がうかがえる柳澤論調において、今後がどう描かれていくのか。そしてその論調を、おそらくは「こんな論調とは思わなかった」であろう仲野信市上井文彦・更級四郎ら前半部での協力者はどう思うのか…「1984年のUWF」の連載は年内いっぱい続くと言われている…(この項了



えー、繰り返しますが、謝罪はなんぼでもします(笑)、消しませんが(^^;)。

ではではまた。

前田対ニールセン30周年を、「今」だからこそふるきちが語る。

すべては題名の通り。
「今」だからこそ語らねばならないという部分もあるけれど(苦笑)。
以下、例によって駄文ツイート転載。ご容赦あれ。


>30年前の明日、前田日明がドン・ナカヤ・ニールセンを異種格闘技戦にて破る。http://njpwworld.com/p/s_series_00071_1_1テレ朝バージョン・要登録)https://www.youtube.com/watch?v=NTZaeC94boU…(実況なしバージョン) この一戦について語りたいことは山ほどあるのだが(苦笑)


>まずはこの時の前田が、4月にアンドレとの不穏試合、6月に藤波を壮絶な試合の末に縦回転のニールキックで負傷させてしまったことを受けて、「ニールセンは通常の異種格闘技戦にことよせた新日本フロントからの刺客なのではないか?」との疑心暗鬼に駆られていたことを前提としなければならない


>そのことはNumber誌上で今や明らかに(苦笑)Uに批判的な論調を繰り広げている柳澤健1984年のUWF」でも語られている。実際「1984年の〜」でも書かれているように、前田は1日6時間にも及ぶ練習で体重を106キロまで絞り込みこの一戦に備えていたのである(ちなみに


>この練習量については試合直前の週刊プロレスもレポートしていた)・・・が、当の「1984年のUWF」では、「前田対ニールセンは通常の異種格闘技戦(ここではプロレスの一種としての意)と同じであり、前田の疑心暗鬼は結局取り越し苦労であった」という意味の書かれ方をしているので


>ある(苦笑)。・・・しかし、レスラーのシュートを意識した練習そのものがほとんどの場合「取り越し苦労」ではないのか。あるいは長州や武藤は使いもしないそういう技術を練習することに反発を感じたのかもしれない。だが、そういう練習がもたらすある種の自信と緊張感こそが、ブックありの


>試合でも、迫力をもたらすのではないのか。実際、あの試合は「5Rでフイニッシュ」はあらかじめ決められていたのではないかとも思う。どちらが勝つにせよ。「1984年のUWF」ではニールセンが新日本から「早いKОはダメだ、盛り上げてくれ」と言われていたとも伝えている。


>とすれば「中盤以降からならKOして良かったのか?」となるが、「1984年」での柳澤氏はそれは語らないんである(苦笑)。それはともかくとして、前田はニールセンが序盤からKOにかかってくることをも警戒していたとは思う。4Rでのスネへのガチローでニールセンに苦悶の表情を


>浮かべさせたのはまさに好例であった。前田のその一撃には「余計な気を起こすなや、コラ」の意が込められていたろうと。そして第5ラウンドのフイニッシュ…何より感動的であったのは、決着直後のセコンドの反応であった。飛びついてくる高田、満面の笑みで称えるシーザー武志やシンサック


>そして何よりカール・ゴッチ・・・この10年前、ゴッチは言うまでもなく猪木対アリのセコンドについていた。しかし彼が試合後に味わったのはどうしようもない失望と寂寥感であったろう。ゴッチはまさに10年前にこの歓喜の中に身を置きたかったのだと思う。もちろんアリとニールセンでは


>選手としてのステイタスはあまりにも違いすぎる。しかしそんなことどうでもいいではないか。世間的な評価などどうでもいいではないか。ゴッチは本当にこの歓喜の中に身を置きたかったんである。Uの若者たちに協力したことは間違いではなかった、とこの時のゴッチは痛感したに違いない…


>それを今やこの時の藤原組長(37歳)よりこの時のゴッチ(62歳)に年齢が近くなった僕はつくづく思うのである。そしてゴッチをしてこの歓喜の中に置かせてくれたこの試合を、僕は今もって自分の見てきた最高の試合の一つであると思い続けているんである。いや、そりゃ技術的には


>稚拙もいいところですよ、後のMMAに比べれば。しかしそんなこともこれまたどうでもいい。少なくとも、UWFと前田はこの一戦でファンの評価を一変させ、やがて独立し一時的にでも大ブームを作り上げるきっかけをつかんだんである。一度大団体に屈しながら、そこからファンの支持を


>勝ち取り独立に結び付け、大団体をも圧倒するムーブメントを作り上げたという例がほかにあるか。寡聞にして僕はそんな存在をU以外に知らない。それゆえにそのきっかけを作った前田対ニールセンは僕にとって永遠の名勝負なんである・・・世間的に評価を勝ち取って「しまった」後のことも


>本音をいやあどうだっていい(苦笑)。個人的には、当時大学4年であと半年で社会に出ねばならなかった僕にとって「屈しなかった」前田の姿は勇気を与えてくれた。それで十分なんである。これを読む読者の方々には、そんな試合がおありか。そんな試合があるなら、それが他からどんな評価でも


>関係ないであろう。それがすべてなんである・・・。ちなみに。新日本ワールドで前田対ニールセンを見ると、当時テレビでは流れなかった、試合後に前田がニールセンをたたえる言葉が聴ける。「・・・彼は日本人の血を受け継いでいて、研究熱心であり、2年前にスパーリングした時とは全然


>違っていて…」前田とニールセンが2年前にスパーリング? まったく初耳なんだが…事実なら面白い話だが、もし前田が頭部のダメージで誰かと勘違いしてるなら…今の前田兄さんが時々とんでもない思い違いやらかすのもこの時の後遺症では、と思ったりしてしまうんであります(^^;・この項了


最後にちょっとヒヤリとする話で締めちゃいました(苦笑)。
ではではまた。

「1984年のUWF」、ゴルドー回への批判と注文。

柳沢健氏の注目連載「1984年のUWF」がいよいよもって佳境に入ってきた、
というよりUディスりがいよいよ佳境に入ってきたんで、緊急反応ブログアップ(笑)。
しかしまあ対ニールセン30周年直前にしてこういう展開になろうとは(苦笑)。
ではではまた後ほど。


>Number連載「1984年のUWF」第20回「真夏の格闘技戦」を読む。予想通りの「前田対ゴルドー戦の真相」なのだが・・・うーむ・・・。いや、あれをフェイクというのはいいんですよ。実際、当時から「あんなに右ハイキックばかり、取ってくれと言わんばかりに蹴るもんかね」と思ってた


>わけだし(苦笑)。前田とゴルドーとの間でリハーサルが行われていた、というのも結構。前田が作ってた青タンも、ひょっとして試合前にゴルドーにやられたんでねえの、とか思ってたわけで(笑)・・・ただねえ、ゴルドーがあまりにも調子に乗っていらんことをベラベラしゃべりまくってるの


>が気に入らんのですよ。「『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーより強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか」…?前田対ゴルドーから28年になるけど、そんなことを前田兄さんがあからさまに言った記事を見たことござんせんけどね。そもそもゴルドーさんはこの一戦だけ参戦した


>みたいに言ってるけど、あんた前田リングスにそのあと2回も参戦しとるじゃないかと(苦笑)。しかも佐竹戦ではあんた何したかとね・・・。「もしマエダと私がリアルファイトで戦ったら?おそらく1分くらいで勝負はついていたと思う」ほう、ようゆうた。そのリアルファイトとやらで


>あんた何したのかね。佐竹にはかみつき、中井さんには目を突いて失明させ・・・そもそもこれは筆者の柳澤健さんへの批判になってしまうかもだけど、スタンスがおかしくなってきてると思うのですよ、この連載の。つまり、第1回で中井祐樹さんのU体験と失望を取り上げておきながら(続)


>第20回目にしてその中井さんを失明させた相手・ゴルドーの発言を無制限に載せてるわけで。しかもその失明事件については全く触れずに(追記・連載の終盤で触れられました)……あたかもこの連載だけ読んでる人は「清廉潔白なる空手家ジェラルド・ゴルドー氏をUWF前田はだまくらかしてフェイクファイトに引きずり込み


>誠実なるゴルドー氏はいまだにそのことを悔い続けている」・・・しかし実際はそうではない。ゴルドーは新日本、UFО、ゼロワンでもプロレスしてて、そこではまっとうな(苦笑)プロレスを展開してる。しかし真剣勝負の舞台では反則三昧・・・要は、プロレスの時はおとなしくしてるけど(続)


>ガチの時にはどんな手を使ってでも相手を潰そうとするクソ野郎ではないのかと。いやマジに、わたしゃプロレス&格闘技を40年以上見続けて、ゴルドー以上に品性下劣な輩を見たことがないと思ってるのですけどね。そんな輩の発言を無制限に載せて、こと中井事件などの所行については目を(続)


>つぶってしまう、それでいいのかと思うのですよ。・・・柳澤さんには、「1984年のUWF」単行本発刊の際には、ぜひ前田日明との対談をお願いしたい。かの名作「1976年のアントニオ猪木」文庫化のおりに、猪木インタビューを載せた時のように。今回、ゴルドー


>「前田にレッスンしてやったんだ」と称している前田の青タンにせよ「あれはあんまりゴルドーがゴネるから『俺を一発殴らせてやるからそれでリング上がれ』いうてやったんや!好きなこと言いやがってあの鳥ガラ野郎が!!」くらいの発言は出るかも(笑)。もし身の危険を感じるなら、かの(続


レスリンソウル五輪銀メダリスト太田章氏あたりに立会人になってもらってはどうかとw(前田と太田氏はカレリン戦の際に和解)「日本レスリングの物語」を著した柳澤さんのお願いなら太田氏も快諾するのではと(^^;)。(この項了・追記あり


>(追記)ちなみにかくいうワタシでも、ゴルドー戦が前田日明史上最悪の試合であることを認めるのにやぶさかではない(苦笑)。前田の動きの悪さ(慢性虫垂炎を患っていたとの話もあり)、あまりにもテキトーなフイニッシュブック、セコンドのテンションの低さ・・・こと、セコンドのテンション(続)


>に関しては、あの伝説のニールセン戦と比較すれば歴然なんである。そのことはまた明日、前田対ニールセンから30周年の記念日・・・の前日に(笑)。ではではまた。


というわけで、明日の前田対ニールセン30周年(の前日w)記念連投&ブログアップもどうぞごひいきに(^^)。
ではではではまた。