カール・ゴッチは水木しげるである。

ども、最近は某連載への小難しい反論記事が多くなってしまい、すっかり辛気臭くなってるので、とたんにこんなバカ記事書きたくなったふるきちです(笑)。


別に「水木しげるカール・ゴッチである」でも良かったんだけど、このダメブログを見に来られるのはプロレスファンが大半だろうとも思い、こちらの題名にしてしまうのでした(笑)。


以下、駄文ツイート転載、ご笑覧あれ。


>明日は水木しげる先生1周忌なのですが、最近ワタシは「水木しげるカール・ゴッチ」という新説を生み出したのでご報告(笑)。根拠その1・「巨大なる傍流」であったこと。手塚治虫力道山ルー・テーズという主流では決してなかったが、傍流として日本の漫画界&プロレス界に巨大なる流れを


>生み出した。根拠その2・ともに戦時中の悲惨な体験がある。水木先生の南方での戦争体験はよく知られているが、ゴッチさんも第2次大戦中にナチスの収容所に合計3年近く入れられている(ゴッチさんが実はベルギー人であることも関係してたか?)。また水木先生もゴッチさんもその頃左手に


>重大な障害を負っている。水木先生は爆撃で左腕そのものを失い、ゴッチさんは強制労働中の事故で左手の小指を失っている(もっともこれについては収容所に入れられる前の港湾関係の労働での事故ともいわれる)。根拠その3・非常な遅咲きである。水木先生は復員後1951年に29歳で


>紙芝居作家デビュー、57年に35歳で貸本作家デビュー、月刊「ガロ」で雑誌漫画本格デビューするのは64年42歳からである。ゴッチさんはロンドン五輪出た後50年に26歳でプロレスデビュー、59年に35歳で米国マットデビュー、テーズのNWA王座に初挑戦するのは63年39歳の時……


>ね、似てるでしょ?(笑)実は年齢も二つしか違わない(水木先生1922年生まれ、ゴッチさんは24年生まれ)。そしてこのご両者、61年に大きな転機を迎えている。その61年に水木さんはかの「ゲゲゲの女房」布枝さんと結婚、人生の伴侶を得る。そして同年、ゴッチさんは…そう、初来日!


>ゴッチさんが吉村道明相手に本邦初のジャーマンスープレックスを見舞った初来日が、まさにその61年だったのですね。そしてその5年後、水木先生&ゴッチさんにさらなる転機がやってくる。66年に水木先生が水木プロダクション設立、そして同じ年にゴッチさん再来日さらに・・・日プロの


>レスラーたち(グレート小鹿山本小鉄ら)を生徒に、日本でのゴッチ教室初開講!! 水木プロダクションとゴッチ教室が同じ年にスタートしてるってのがもはや因縁を感じませんかとw(まあゴッチ教室がリキパレスの道場で常駐開講されるのは翌年のことですが^^;)そして遅咲きの水木先生


>が代表作「ゲゲゲの鬼太郎」(当初「墓場の鬼太郎」)のアニメ化によりブレイクするのが68年、そしてゴッチさんの「最高傑作」アントニオ猪木がワールドリーグ戦で初優勝しブレイクを果たすのが69年、ここでも符合!(猪木さんはもう人間以外のものw)「鬼太郎」も猪木さんも創造主の


>手を離れて独り歩きしていく(「鬼太郎」のアニメは水木先生は主題歌作詞くらいしかタッチしてないですしね。ある意味「鬼太郎のアニメ化」は「猪木さんの異種格闘技戦」のようなものであったかも・^^;)のも含めて、「60年代末の代表作ブレイク」という点でも水木先生とゴッチさんは


>一致するわけであります。経歴合わせが長くなってしまいましたが・・・ホントはこれが一番大事な根拠その4「見えないものを信じ続けた」。水木先生といえば「妖怪」の存在を信じ身近にそれを感じることの大事さを説き続けたことで知られるわけですが・・・実は「妖怪が見える」とは


>水木先生はほとんど発言しておられない。「感じることはある」とはおっしゃってるけど(「ニューギニアの奥地でぬり壁を感じた」とか)。むしろ「見えないものを見ようとする」ことが大事だと言っておられる。それってのは実はゴッチさんも同じなのですね。サブミッションの大事さ、シュート


>技術の大事さを説き続けたゴッチさんですが、実はリング上で「サブミッションにより相手の腕をへし折った」なんて記録は正確には見たことがない。グレート・アントニオをリング上で、バディ・ロジャースを控室でそれぞれリンチしたって話は無論あるけど、正直サブミッションと関係ないしw


>しかしゴッチさんの業績にとってそれは何の瑕疵にもならない。なぜならそのシュート思想(プロレスラーは常に「それ」を携えた上でリング上の闘いを演じねばならない、という)によって多くの弟子を惹きつけ、彼らの戦いを見るプロレスファンに「強さ」の説得力を与えてくれたのだから。


>水木先生の妖怪幻想&ゴッチさんのシュート思想、どちらもが読者・ファンに「じっと目を凝らさねば見えないものがある」ことを教えてくれたのだ。それは日常で垂れ流されているもの以外のどこかに何かがある、ということでもある。ここではないどこかに。それを与えてくれたご両者に僕らは


>もう一度感謝を捧げねばならないと思うのですよ……それにしても水木先生とゴッチさんの対談がなされなかったのは、今もって残念(笑)。ゴッチさんに会った後の水木先生、きっと「あれはドイツの妖怪ですよ、ワタシには分かるんです!!」「水木先生、ゴッチさんはベルギー人なんですが…」


>「そんなことは問題ではアリマセン、アントワープとハンバーグなんて近いもんです!!」「(ハンブルグって言いたいんだろうな・・・)」なんていう楽しいお言葉が聞けたのではないかと思うと、残念ではあります(^^;)。ではではまたー。(この稿了)


ブログのみの追記。
水木先生&ゴッチさんともに晩年は隠居していたようなイメージがありますが、実際には水木先生は亡くなる前年2014年にもビッグコミック誌に新連載「わたしの日々」を始めており、また亡くなった2015年にも「怪」誌に絵物語水木しげる×小泉八雲」の連載を始め、3回目まで描いておられました。
そしてゴッチさんも、そりゃプロレスラーとしては82年の藤原&木戸とのエキシビションが最後でしたけど(苦笑)後進への指導は続け、そして亡くなった2007年にはキャッチレスリングのトーナメントを企画、ルール設定にも携わり、実際、逝去4か月後の11月にロサンゼルス郊外のサンタモニカ高校ジムにて大会は開催されたのでした・・・(ちなみに翌年2月にこの大会をNumber誌掲載ノンフィクション「カール・ゴッチの生涯」で紹介してたのが、ほかならぬ「柳澤健」氏であります・^^)。
まさにLife is movement.(生きるとは動き続けることだ)−−−カール・ゴッチ


そしてもう一つ、お二人の共通点を思い出しました。
二人とも、別名の人生を生き抜いたこと。
武良(むら)茂氏は「水木しげる」としての人生を。
カール・イスタス氏は「カール・ゴッチ」としての人生を。


本名のままでは生き得なかった人生を、お二人ともに見事に演じ、生き抜いたのだと思います。
偉大なる二人の人生に、敬礼。


ではではではまた。