藤波辰爾自伝を読む。

いくら2年前に民事再生法が適用されたようなマイナー出版社・草思社からの出版だからと言って、かつて視聴率20%以上を誇った時代の新日本プロレスのスター選手・ドラゴン藤波の自伝出版がこれほど話題にならないなんてことがあっていいのでしょうか(苦笑)。


http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4794217889.html


しかし、冒頭からもうこの人がなぜアントニオ猪木を超えられなかったか、てかずーっとそのプレッシャーに押されまくってしまったのか、が分かってしまうのである。


「目を閉じると、今でもありありと思い浮かぶ光景がある―――。
湯気がもうもうと立ち上がる地方旅館の大浴場。十六歳だった僕の目の前には、試合を終えたばかりのアントニオ猪木の大きな背中がある。
(中略)
その姿を見届けると同時に僕は脱衣所に出て、着替えの準備を始める。やがて猪木さんが風呂からあがると、僕はバスタオルを手に持ち、ふき忘れのないように注意しながら、全員をくまなく拭いていく・・・。
これが、わずか六十二〜六十三キロ程度しかなかった十六歳当時の僕の日常だった」


62、3キロしかなかった16歳の少年が全盛期のアントニオ猪木のオーラをもっとも身近に直撃してたら、そりゃ一生のトラウマになりますよ(苦笑)。


あげくに現在でも辰っつあんはこんなこと書いてしまうのだ。


「猪木さんの姿を見ていると、何も不安を感じなかった。『この人についていけば何も心配はないんだ』『必ず何かが出来るんだ』と自然と思わせてくれるエネルギーが猪木さんには満ちていた。五十代の後半となり、もうすぐ還暦を迎えようとしている現在まで、この思いは変わらない」



だからダメなんじゃん!!(苦笑)



しかし、どうにも辰っつあんは憎めないのだなあ、僕には。
何より、猪木対アリ戦の後、プロレスを醒めた目で見るようになってしまってた中学時代の僕を、ドラゴンスープレックスやドラゴンロケットで思い切りリングに引き戻してしまったジュニア時代の辰っつあんには、僕はやはり感謝してもしきれないものがあるのですよ。
まあ、だからこそこんな人生を歩んでしまった、という思いもあるけれど(苦笑)。



わざわざ「お飾り社長と呼ばれて」という章を設けて(苦笑)語ってる新日本プロレス社長時代に関しても、
「社長時代には常に二人の藤波辰爾がいたように思う。『本心の藤波辰爾』は、大仁田にも総合格闘技に対しても『ノー』と言っているにも関わらず、『社長の藤波辰爾』は興行のことを優先して『イエス』と言い続けていたのだ」
なんて言い訳グチグチのありさま(失笑)。
でも辰っつあんだから憎めないんだなあ・・・。


かおり夫人の
「長州さんは『匠』と言ったそうですが、私は主人のことを『職人』だと思っています。この印象はつき合いはじめた当時から変わっていません」
この言葉もついついしみじみ聞き入ってしまうのだな。


何よりラスト間際の、


「そして五十代。僕はついに新日本プロレスを去ることになった。新日本プロレス―――それは僕の青春だった。
十八歳だった僕は、すでに五十二歳になっていた−−−」


てとこでジンとしてしまうのだな。



ちなみにニールセン直前の前田に会いに行った話もしみじみと胸にしみるところであります。「ひょっとしてセメントになるんじゃないか」と疑心暗鬼の前田をなだめるために行ったんだろうけど・・・。
なぜ胸にしみるかは、あの時の実況席を思い出してもらえれば、分かる人には分かる。きっと。



辰っつあんにはぜひ体の続くまでリングに上がり続けてほしいものです。


たまにこんなボケやらかしてくれていいから。

ウフッフ〜♪(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=CRiVTalV9cY&list=PLCB459BD1E936842F&index=67&playnext=1


ではではまた。