伝説は守られた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100320-OYT1T01006.htm?from=rss&ref=mixi


龍馬の「婚約者」は美人、宇和島藩主のお墨付き
 

坂本龍馬(1835〜67)が江戸で剣術修行中に知り合い、婚約したとされる千葉佐那(さな)が、飛び切りの美人だったとの記述が、愛媛県宇和島市に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)(1818〜92)の記録「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」(宇和島伊達文化保存会蔵)にあることがわかった。


>龍馬研究者の宮川禎一・京都国立博物館学芸部室長が確認し、「同時代史料で確認できたのは初めて」と話している。
>佐那は北辰一刀流の達人千葉周作の弟、定吉の娘で、定吉の道場に学びに来た龍馬と知り合い、婚約して結納を交わしたとされる。


>公記は宗城の直筆の日記などから明治期にまとめられたもの。安政3年(1856年)6月19日の項で、当時19歳だった佐那が「世子殿」(9代藩主宗徳(むねえ)、当時27歳)の剣術の相手をして打ち負かしたくだりに「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」などとあった。伊達家の御殿は江戸に2か所あり、出入りする多数の女性の中で、宗城が佐那を一番の美人とみていたことが読み取れる。


安政3年は佐那が龍馬と知り合った少し後で、伊達家の姫君の剣術教師だったらしい。



うむ、さな子様美少女伝説はこれで歴史的にも証明されたと言えよう!!(笑)。


さらには、さな子様はジョシカク(女子格闘技)興行選手の元祖であったこともここに証明(笑)。



http://www.kakato.com/~yuzuriha/blog/archives/28372


>今朝の朝日新聞・社会面に、『竜馬もほれた佐那(さな)の錦絵』 という見出しで、「千葉佐那」さんを描いたとおもわれる錦絵が載っている。


>1873(明治6)年の剣術興行の様子を描いたものだそうで、もし事実なら、龍馬が死んで6年後のことになる。


>錦絵の右下に 「千葉貞女」と名があるが、新聞ではこの剣術大会は 「北辰一刀流創始者である千葉周作の弟・定吉の娘の佐那ら、千葉性の女性3人が参加していた・・。・・・この女性が周作のめいの佐那である可能性が高い」と書かれてある。


>「顔は長面にして鼻筋は通り、口元は締れり」 とある。



ちなみに「千葉貞女」とは「千葉貞吉(定吉)の娘」の意ですね。


千葉さな子様は1838年の生まれなので、この時満35歳になってしまうのですが(苦笑)。まあ今のフジメグ(藤井恵)・辻ちゃん辻結花)くらいと思えば良いでしょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E3%81%95%E3%81%AA%E5%AD%90


さな子様も今のジョシカクの隆盛を喜んでくれるでしょう!!(笑)


と思いながら、現代のジョシカクのスター選手・石岡沙織が「いいとも」に先日出たのを増刊号で見ようと思ったら・・・。
今日は地元のレディ−スマラソン中継で、こっちでは増刊号やらないんでやんの!! ぎゃあ。


大会本部に爆弾仕掛けて阻止してやるうううう!!(もう30分で始まるので無理)


ではではまた・・・(涙)。