井上義啓編集長追悼本について。

えー、昨日のプライドについてはまだ見てもいません(苦笑・録画して貰ってるんで、今日夕方からじわじわと見ようかなと思ってます)。これについてはまた後日。ついでにいえば「シウバの敗北は40度の高熱があったから」との説もありますが、「ステロイドが打てなかったから」との説とどっちが正しいんでしょうね(^^;)


さて、紙プロから出た「殺し 活字プロレスの哲人 井上義啓追悼本」のこと。


ズバリいってですね、物足りねえんです!!!(ドンッ!)
何がもの足りないって、週刊ファイト時代に井上編集長が書いた記事が何も載ってないでしょうが!!
書中のインタビューで井上編集長自身が「編集者のピークは40歳から45歳」って書いてて「その時代の自分の書いたものを読んで『この井上義啓という男は何と凄い男だ!』と思うことがある」とまで言ってるのになぜそれを載せないのか!! 新大阪新聞社の前で土下座してでも載せるべきでしょうが!!(もっともあそこは大阪府年鑑しかもう作ってないそうだし、経営的にそれどころじゃなくなってるのかもしれないですが・苦笑)もし新大阪新聞がダメなら、マニア間を飛び回っても当時の氏の書いた記事をかき集めて、袋とじにでもして収めてほしかった。


昭和52年猪木対モンスターマンの頃から週刊ファイトを読んでた身としては(あれから30年も経つのだ!!)、その頃の記事の凄さを覚えているだけにどうにも食い足りない。
たとえば猪木引退時に出た「アントニオ猪木引退記念ファイト縮刷版」なんて見るとですね、その猪木モンスターマン戦の時には、猪木のスパーリングパートナーに藤原・佐山が起用されてたことを彼らのインタビューも含めて書いているわけですよ!!!1977年だから、第1次UWF旗揚げの7年も前に藤原・佐山ですよ!!!こんなもん当時の「プロレス」も「ゴング」も書かねえですよ!!!
そして79年の夢のオールスター戦の時には、「私が密かに期待したハプニングはやはり起こらなかった。私が望んだ最高のシーンとは何か。ブッチャーが猪木を、シンが馬場をこてんぱんに痛めつけて、両団体が真っ二つに割れて――である」なんて書いてるんだから。こんなこと書く人は当時いないって(^^;)。
さらには84年IWGPの時には、長州乱入のドサクサに紛れて場外でダウンしている猪木を星野らがリングに押し上げてリングアウト勝ちにした、そういう新日本の姑息さをしっかり記事にしていたり(かのミスター高橋本ですらこれは出てこない)。そういう井上編集長の凄さがこの本ではまったく伝わってこない。それが残念。


近年の紙プロでのコミカルなI編集長像だけで十分、そういう人でない限りこれはお勧めできないなあと。少なくとも30年来の井上フアンは全然満足出来なかった、それだけは書いておかねば。


ついでに私事を。かのGK金沢氏がファイトに入社したその次年度に僕も新大阪新聞社受けてるんだけど、氏がファイト専属の採用募集に受かったのに対し、僕は新大阪新聞社そのものを受験したので、金沢氏のようにプロレスがらみだけの問題・面接だけでなく、問題でも面接でもしっかり一般教養も問われてしまったゆえの不採用であった(当時は「単なる」オタクだったからね。今は「単なる」は取れてると思う・^^;)。
チキショー、金沢氏パターンだったら俺も通ってたのに!!金沢氏のインタビューでその受験実体が分かったがゆえの悔しさを覚えたふるきちでした。お粗末(^^;;;)。