76年2月の「異種格闘技戦・猪木対ルスカ」の意義について。

14日に亡くなったというウィリアム・ルスカ氏に捧げます。


例によってツイート転載。


>14日に亡くなったというウイリアム・ルスカについて改めて。猪木の異種格闘技戦がルスカ戦からスタートしたというその意義はあまりにも大きい。何といってもその第一戦からして「五輪金メダリスト相手」だったのである。そのクオリティの高さといったらこの上ない。さらには、そのルスカ戦は(続)


>M・アリ戦の前振りでもあったというのが凄いではないか。実際、猪木が最初にアリへの挑戦を表明したのが75年の6月9日なのだが(来日中のアリに猪木の代理人が挑戦状を手渡した)、ルスカの猪木への挑戦表明はその年の11月。猪木にしてみれば、「俺は本気だ」とアリに伝えるのに格好の(続)


>材料でもあったのである・・・そもそもルスカの「挑戦表明」は額面通りのものだったのだろうか? そのまた前々年73年にアントン・ヘーシンク全日本プロレス入りしており、ルスカのそれも新日本への入団と言う形になる可能性だってあったはずで。しかし猪木はその形をとらなかった。(続)


>あくまで「ルスカの自分への挑戦」という形をとることにして、緊張感を煽ることにしたのではないか。前例はある。74年に新日本への参戦を決めたストロング小林の処遇を、「新日本への入団」ではなく「猪木への挑戦」ということにして、「巌流島の戦い」と煽りに煽って見事本番の名勝負に(続)


>つなげたのである(このあたりの経緯はベースボールマガジン社のムック本「永久保存版・アントニオ猪木(上)」で新間寿氏が証言している)。ルスカの場合も、入団などの形で無くあくまで一対一の挑戦⇒受諾という形をとることで、アリ戦への最高のステップとして位置付けたのではないか、(続)


>僕にはそう思えるのである。そしてルスカもまたその猪木の期待に見事に答えてみせた。何といっても「猪木対ルスカ以前は、『プロレスは最強の格闘技である』という幻想は存在しなかった」のである。プロレス最強幻想、それはまさに猪木とルスカが共同で最初に作り上げたものであった。(続)


>そのことを僕らは正しく認識しなければいけないし、忘れてはならないのだと思う…ちなみにあの一戦も2月であった。プロレス最強幻想を猪木とともに作ったあの運命の一戦から40年目の2月にウイリアム・ルスカは亡くなったのである…。ルスカ選手のご冥福を心からお祈りいたします。(この項了


合掌。
それではまた。