昨日は龍さん記念日、そして今日、春樹さんの歴史的講演に触れる。

えー、昨日は自分にとっては4年前に作家の村上龍氏に会って握手してもらった記念日でありました(笑)。

これについては2年前のこの日記が詳しいのでこちらに。
(しっかり「エヴァ」のあの人についても書いてるけど・笑)


http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20070216


そして一方、今日は「W村上」の片割れ、村上春樹さんのこの歴史的講演に触れることになりました。
エルサレムに乗り込んでガザ攻撃を批判したか、春樹さん!!

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html

http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html


イスラエル最高の文学賞エルサレム賞が15日、作家の村上春樹さん(60)に贈られた。エルサレムで開かれた授賞式の記念講演で、村上さんはイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、人間を壊れやすい卵に例えたうえで「私は卵の側に立つ」と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判した。

>ガザ攻撃では1300人以上が死亡し、大半が一般市民で、子どもや女性も多かった。このため日本国内で市民団体などが「イスラエルの政策を擁護することになる」として賞の返上を求めていた。

>村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。

>また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。

>村上さんの「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」など複数の作品はヘブライ語に翻訳され、イスラエルでもベストセラーになった。

エルサレム賞は63年に始まり、「社会における個人の自由」に貢献した文学者に隔年で贈られる。受賞者には、英国の哲学者バートランド・ラッセル、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスチェコの作家ミラン・クンデラ各氏ら、著名な名前が並ぶ。欧米言語以外の作家の受賞は初めて。



講演の内容は次の通り。

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html

一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。

 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。

 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。





まさに60年代的精神ここにあり!という感じだなあ。


いや、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても」ってのは朝日の誤訳だと思うが(この辺がアサヒチックやね・笑)、しかしこの春樹さんの講演には、

「ごちゃごちゃ言っているが、要するに壁の側に立って自分を正当化していないかい、おまいらは」

と言う痛烈な我々へのメッセージを感じるのだな。



「どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。」


この言葉にはまさに表現者の矜恃を感じる。
そして「欠席」などという形で逃げるのでなく、敵中に入ってその表彰式の席上で世界中にそのメッセージを発信したところに、春樹さんの志の高さを感じるじゃあないか。


「W村上」とか言って軽侮している人々は一度、かつて読んだことのある人はもう一度、この二人の作品をそして発言を読み直してみるといい。
そこには三島由紀夫の死以降、日本文学を支え続けてきたこの二人の偉大なる足跡を見ることが出来るからだ。


そしてそれは酔っぱらって世界中に恥をさらしたどっかの大臣の姿を見るよりも、よっぽど日本人としての誇りを感じることが出来ると思うよ。この二人と同国同時代に生きているというのは。


ではではまた。