失われしものについて

ども、ふるきちです。
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さて、今回は春樹さんの作品群に出てくる「失われしピュアな存在」について書きたいと思います。
風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」にかけての三部作、そして「ノルウェイの森」を読み比べたフアンならば、誰でも「鼠」は「キズキ」ではないのかと思うのでは。初期三部作での「僕」と「鼠」のつながりの強さ、そして「ノルウェイ」での「キズキ」を失った僕の喪失感を見れば誰でもそう思うのではないでしょうか。
そこでさらに僕は一歩踏み込んで、キズキと直子は性差こそあれ双生児的存在ではないのかと考えます。キズキを失った僕が、その失った何かを直子に求めていく。「鼠=キズキ=直子」、これが初期三部作と「ノルウェイ」における「ネガティブにしてピュアな人物群」であり「失われし存在」であります。

一方で「ノルウェイ」にはそのストイックさにおいてある意味春樹さん以上に春樹さんらしいキャラが存在します。言わずと知れた「永沢さん」です。永沢さんはその自己抑制の強さにおいて、彼ら「ネガティブにしてピュアな人物群」「失われし存在」とは対極の存在です。言ってみれば春樹さんのパーソナリティから「鼠=キズキ=直子」的なものを取り去った存在が彼だったりする。
おそらく春樹さんの中には自分の中の「永沢さん」に対する嫌悪があるのでしょう。だからこそややはり「失われし存在」であるところの「ハツミさん」に「システムなんてどうでもいいのよ!」という悪罵を投げつけさせたりしている。
しかし実は三部作の「僕」は「永沢さん」に非常に近い存在です。だからこそ三部作の最終作「羊をめぐる冒険」において「僕」は「鼠」と別れねばならない。「一般論の王様」という「鼠」が「僕」に捧げた言葉は、春樹さんの自嘲に聞こえます。

三部作及び「ノルウェイ」は春樹さんが自分がかつて向こうの世界に置いてきた「ネガティブにしてピュアなるもの」「失われし純粋なもの」への鎮魂歌のように聞こえるのですが、いかがなものでしょうか。またご意見いただければ幸いです。ではでは。