あるベルギー人夫妻の物語。


これはとあるプロレスラーとその妻の実話に推測を補足して作った文章ですが、プロレスに興味のない方でもお読み頂けるように書きますのでもしよろしければどうぞご覧下さい。



ヨーロッパの片隅、小国ベルギーに一人の少年がいた。家が貧乏なため12歳までしか学校に行けなかった少年は、体格の頑強さからレスリングのみ学ぶことを許され、片道1時間の距離を毎日歩いて道場に通った。


貧困だが充実した日々が一変したのは15歳の時だ。ドイツのベルギー侵攻。ドイツ占領下において彼はハンブルグ等の収容所に入れられ、強制労働を強いられた。17歳の時、線路工事の途中で機械に挟まれ、左手の小指を失った。これは彼のレスリング人生において有形無形のハンデとなった。


45年4月、アメリカ軍によって解放された彼は、ベルギーに戻った。しかし戦火によって荒廃した祖国は出戻りの21歳の青年に決して暖かい態度を示さなかった。
明日の生活にもこと欠く日々の中で、唯一彼にとっての光明だったのは復興未だならぬ街で知り合った19歳の少女だった。どのように彼等が知り合ったのかどのようにして一緒に暮らし始めたのかは残念ながら僕も知らない。しかし確かなのは青年が彼女との生活のためレスリングを再開し、やがてベルギーのアマレスチャンピオンとなり48年のロンドン五輪への出場を勝ち取ったということだ。残念ながら2回戦で優勝者と当たるクジ運の悪さもあって上位進出はならなかったが。


やがて彼はプロレスへの転向を決める。小国ベルギーではアマレスの指導者となっても二人の生活を支えるだけの収入が得られなかったから。
しかし何事にも頑固な彼は、夫人(もちろん前述の少女だ)を連れて西ヨーロッパを転戦した後、イギリスのとある道場で伝統の関節技主体のレスリングを教えているのを知ると、そこに住み込んで以後8年間にも及び技術の習得を図る。アメリカにでも行って、ドイツ人ヒール(悪役)としてやっていけばかなりの収入が得られた時代なのに、何という頑固者だろうか。
しかし夫人は文句の一つもいうことなく、彼女自身も働きながら、彼の修行の日々を陰から支えた。


30代半ばとなった彼は修行にめどをつけると、夫人を連れてカナダ、アメリカへと転戦し、やがて彼にとって因縁の地となる日本にたどりつく。プロレス後進国であった日本には、彼の技術を学びたがる若手レスラーたちが多数おり、彼は黄色い肌の若手達に惜しげもなく技術を教授した。
アメリカと日本を行き来する日々、時には日本で1年以上も長期滞在しながらコーチとしての日々を送った。夫人もまた、言葉もろくに分からぬ国での生活に戸惑いながらも、しかしコーチとしての日々に充実感を覚える夫に理解を示し、やはり陰ながら彼の生活を支えた。


しかし、ヨーロッパ、アメリカ、日本と転戦する日々は確実に夫人の身体に負担をかけていった。
四十代半ばとなり、身体の変調と苦痛を訴えるようになった夫人を連れて、彼はフロリダ州タンバの地に移住し、そこに居を構えた。気候温暖なフロリダの地は彼女の身体によい影響を与えると思えたから。
もはや世界各地を転戦することなく、地元のレスラーと時折訪れる日本人レスラーに技術を教えるだけの日々。彼は25年もの間苦労をかけた夫人に、はじめて平穏な毎日を与えることが出来たのだ。そしてその平穏な日々はやはり25年もの間続いた。


だが、幸福はいずれ終わりがやってくる。六十代の半ばにして夫人がガンに冒されたのだ。老人の懸命な介護の甲斐もなく、夫人は七十歳を目前にしてこの世を去った。老人の悲嘆はいうまでもない。
やがて喪が明け、老人のもとを訪れた人々は、彼の首に掛かったペンダントに気づいた。無骨で装飾物などしたこともない老人の変容に人々はいぶかしんだが、そのペンダントの中に入っているものが、夫人の遺灰であることを聞かされると一様にみな絶句した。
出会ってから50年もの間苦労をかけた夫人の遺灰とともに、老人は残りの人生をも生きようとしたのだ。


夫人の死から12年後、老人の人生もまた静かに幕を閉じた。
老人の遺言は「墓はいらない。ただ、火葬にしたら、妻の遺灰とともに海へ流してやってほしい」というものだった。
夫人とともに世界を転戦した日々のことを思い、彼は妻と最後の旅に出ることを夢見たのだろうか。
しかし、彼の死後、なぜか弟子達は彼の終焉の地フロリダはタンバの湖に二人の遺灰を流した。その理由は定かではないか、老人の崇拝者である僕は未だにそのことについていささかの不満がある。が、もはややむを得まい。




二人の魂は今、その湖で静かに眠っている。
老人の名前はカール・ゴッチ、妻の名前はエラという。
以上。