アントニオ猪木対モハメッド・アリ40周年〜勝つわけにはいかなかった猪木、負けるわけにはいかなかった猪木。

本日、言わずと知れたアントニオ猪木対モハメッド・アリから40周年。
ワタシが何か書かないわけがない(苦笑)。


以下、駄文ツイート例によって連打連撃。
ご笑覧あれば幸い。


>本日、言わずと知れたアントニオ猪木対モハメッド・アリから40周年。さる12日にはアリ氏追悼を兼ねての特番がテレビ朝日で放映され、改めてその歴史的重要性を再認識した人も多かろうと思う。しかしあの番組で欠けてた視点があったような気も。それは「なぜ猪木はあの戦法をとったか」という


>視点・・・。そもそも「あの戦法」は昭和17年富田常雄姿三四郎」中の「すぱあらの章」で三四郎がボクサー相手に使っているものであり、さらには大正8年にあの木村政彦の師・木村又蔵がボクサー相手に用いている(!)ものなのである。http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/f09e55003a66f6f30fa3e12a652b5bd8


>要は木村又蔵の話を聞きつけた富田常雄が「姿三四郎」にその戦法を盛り込み、それを読んでいた猪木サイドの何者かが猪木にその戦法採用を進言したのではないか、そう思えるのだが・・・僕はズバリそれは「梶原一騎」ではないかと思っていて。猪木と梶原一騎のつながりは77年の「四角い


>ジャングル」からではと思われているだろうが、実際にはさにあらず。ちょうど猪木対アリのプロジェクトが進行している76年前半にして「マットの獅子王」という作品で猪木プッシュを行っているのである。http://www.myagent.ne.jp/~bonkura/70s/70index.html これから格闘技世界一路線を追求


>していこうという猪木のその第2戦であるところのアリ戦において、梶原一騎が危ない橋を渡らせるだろうか、という話でもあるのだ。「猪木さん、ここであんた一か八かの大勝負でいいのか? これから先の方が大事じゃないのかね? 『アリと戦った男』としての名前でもって、これから先


>やっていくんなら、今回危ない橋は渡るべきではないんじゃないのか?」・・・実際、このあと猪木の異種格闘技路線の最終地点を自分の子飼いの極真空手選手(それは結局ウイリー・ウイリアムスに託された)との対決に置こうとしていた梶原一騎としては意地でもここで猪木をアリに負けさせる


>わけにはいかなかった。それゆえの「あの戦法」進言であり、猪木もそれを受け入れたのではないのか・・・それが僕の推測であり、今回の論旨の一つでもあったのが、ここで一つ予想外の要素が(苦笑)。今回出た別冊宝島「プロレス真実の扉」http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000007369535&Action_id=121&Sza_id=A0


>猪木対アリ戦をジャッジ面から様々に斬った内容が主で、それはそれで非常に興味深かったのだが、僕にとっては「アリの肉声テープ」の復元全文が最も目を惹く。来日前、猪木戦をエキシビションとすることを望みながら「リアルでやるというならリアルでやる」とも言ってる内容でその意味でも


>気になるところだが、僕にとっての一番のポイントは、アリがこう語っているところなんである・・・「リアルというのは、ボクサーじゃない猪木は打たれるような賭けに出ず床に寝転がり」「(リアルの)場合には床に寝転がるとか、やっていいこと・いけないことについての規則が課せられる」


>・・・何と試合のための来日前に、アリは「猪木がマットに寝転がるかもしれない」との予想をすでに立てていたのである!! 先日のテレ朝特番でも流れたアリの猪木に対する「臆病者!」は「やはり予想通りマットに寝転がりやがったな、臆病者め」の意だったのである・・・さて、なぜ猪木は


>はアリに予想された行動をとってまで、マットに寝転がる戦法を取らねばならなかったのか・・・を考える前に、「実は猪木は勝つわけにいかなかった」ことを指摘しておこう。先述の別冊宝島「プロレス真実の扉」において、新間寿氏はこんな証言をしているのだ。ジャッジの合計得点ルールの


>扱い次第では猪木が勝っていた(合計得点でなく、三者三様のジャッジなのを理由にドローにした)ことを指摘されて「それについては、勝ちでなくて良かったと思うね、本当に・・・。もし勝っていたら、私は新日本を辞めなくてはいけなくなっていた」としているのである。これはどういう


>ことなのか。周辺の文章を読むと、新間氏は「ルール問題の度重なる変更を理由に、ギャラの後金120万ドルの支払いを中止させてもらったが、勝っていればそうはいかなかった」と言っているのだ。しかしそれなら判定だろうがKО&ギブアップだろうが、猪木は勝つわけにはいかなかった


>のではないのか・・・そもそもこの試合、柳澤健氏が名著「1976年のアントニオ猪木」で指摘したように、「エキシビション(プロレスと言い換えてもいい)の形でアリを呼び寄せ、その実リアルファイトを申し入れた」ものだった。もし猪木が勝っていれば、アリ側は当初の契約を暴露し、告訴する


>ことさえ出来たはずなんである。そうなってしまえば、猪木&新日本はすべての信用を失い、破滅に追い込まれる・・・猪木は勝つわけにはいかなかった。これは猪木にとっては最初から「勝利なきリアルファイト」だったのである。一方のアリの方はどうか。実はアリの方は猪木をKОする


>ことは可能だった。「失礼にもキングオブキングスの俺様にあの黄色いペリカン野郎はエキシビションといって呼び寄せながら、直前でリアルを申し入れてきやがった。あんまり腹が立ったから正義の鉄槌を食らわしてやったのだ」・・・アリの側はそう言い立てることがいくらでもできるのだ。


>日本のファンは今に至るも、猪木ががんじがらめのルールを破ってでもアリをぶちのめしてくれることを望んでいただろう。しかし「ルール破りをする」可能性があったのはアリの方だったのである。猪木としては、その危険性は何としてでも避けなければならなかった・・・アリにいかに


>さげすまれようが、猪木は相手に予想されている「あの戦法」を取らざるを得なかったのである・・・しかし、アリの側にも誤算はあった。臆病にも寝転がりながらおびえるペリカン野郎をしり目に、ののしりながらの15Rを終えたっていい、そう思っていたのに、何とペリカン野郎はあの


>不安定な姿勢から何度となく何十度となく強烈なキックを見舞ってきたのだ・・・。アリの左足をミミズばれに追いやったそのキックこそが猪木の意地であった。そして唯一この試合においてアリにダメージを与え得る方法であった。そもそも寝転がった姿勢からタックルの態勢になり、アリを


>テイクダウンさせることは恐ろしく困難なことであったろう。さらにテイクダウンしたところで、ロープブレイクはフリーであり、何度でもアリはロープに逃げ得る。そしてそのエスケープは採点に反映されることはない・・・。「がんじがらめのルール」より、ロープエスケープフリーこそが猪木の


>最大の敵であったのだ(猪木対アリの9年後、第一次Uがロープエスケープをロストポイント対象にしたのは必然にして画期的であった)。「勝ってはいけない」「KОされたらなお最悪」それでいて「アリにダメージを与えなければメンツが立たない」状況の中で、「寝ながら蹴る」ことは猪木に


>とって唯一にして最善の選択であったのだ・・・試合中は猪木にいら立ち罵り続けていたアリが、試合後にはその舌鋒を振るうことなかったのも、猪木の必死の抵抗(それはまさに「モハメッド・アリという巨大な存在への抵抗」であった)に感嘆し、理解を示したからではなかったか。そして猪木に


>とっては「アリ戦」以降の戦いはより重要なものとなった。アリ戦で得たその世界的知名度をテコに、その戦いで失ったものを取り返し、それ以上のものを勝ち取るための戦いが始まったのだ。「あの戦法」を猪木に進言したかもしれない(?)梶原一騎を伴走させた異種格闘技路線、梶原をタイガー


>マスク路線で封じたうえでのIWGP構想、そして政界出馬……プロレスラーが、プロレスラーであった者が、どこまで行けるのか、どこまで高みを目指せるのかを証明するための戦いが始まったのである。……その戦いに猪木は勝ったのか敗れたのか、それは猪木を見続けてきた僕らが知っている。


>そして、猪木がいつかかつての好敵手・盟友たちの待つ彼岸へと旅立つ時、我々の頭の中には、アリから贈られたあの曲が(後日追記・まあ実際には新間氏が強引に買い取ったようなんだが・苦笑→http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2016/06/post-5e0f.html)流れるのだろう、きっと。


>・・・で、ここで終われば美しいのかもだけど、そうはいかないのがワタシのツイート(苦笑)。この試合(アリ戦)にセコンドにつきながら、この後に展開された猪木の異種格闘技路線には一度も姿を現さなかった人物がいる。それは、言わずと知れた「カール・ゴッチ」・・・。ゴッチは、先だっての


>テレ朝特番でも試合終盤「フォールしろ!」「勝て!!」と叫ぶ場面が紹介されていた。ピンフォールはこの試合でも決着手段として認められていたし、その昔は絞め・関節によるタップ勝ちも「フォール」と呼んでいたようなのでそれ自体は不思議ではない。問題はなぜ「終盤」でゴッチはそれを


>叫ばざるを得なかったか、なのである。あるいは猪木はゴッチに「あの戦法」について「中盤までだ。終盤は決めに行く」と伝えていたのかもしれない。ゴッチが中盤まで「あの戦法」に文句をつけず、終盤になって焦りの叫びを上げずにいられなかったのはそれゆえではないのか。ゴッチにとっては


>自分が信じて打ち込んできたキャッチレスリングの優位性を満天下に示す絶好のチャンスであった。ゴッチならロープブレイクの場面でも「折れ!」と叫んだかもしれない(苦笑)。しかし猪木はそうはしなかった・・・61年のゴッチ(カール・クラウザー名義)初来日から続いてきたろう師弟の絆


>がそこから変化していったのかもしれない。猪木よりも藤波・木戸・藤原・佐山・前田と言った次の世代の育成に、ゴッチがその心を傾けるようになったのはそこからではなかったか・・・82年の猪木対ボックの際には立会人となっているが、その2年後の第一次U顧問就任からは完全に猪木と


>離れていく。何より87年、夢枕獏氏のインタビューにおいて(氏の著書「猛き風に告げよ」参照)ゴッチは猪木対アリ戦についてこう語っているのだ…「十年以上も昔のあの試合のことは、忘れることはできない。あれは、戦いではない」…猪木対アリ戦がもたらした猪木とゴッチの亀裂はやはり大きかった。その亀裂がやがてU系という鬼子を産み落とし、


>そのU系が見出したウエイン・シャムロックが第1回UFCに参加して、プロレスと格闘技の接点を作り上げてしまうことにおいても・・・。猪木対アリがもたらしたものはあまりにも大きかったのである。色々な意味に、おいて。 (この項了)




追記。ちなみに猪木対アリの裏側で、МSGでブルーノ・サンマルチノ対スタン・ハンセンの遺恨マッチが同時世界中継の一環として行われてて。この時点で新日本未参戦のハンセン(翌年参戦)。猪木さんは、地球の裏側で戦ってる男がこのあと重大なパートナーとなるとは思わなかっただろうなあ…(^^;)


ではではまた。


追記:

>これを書いた2か月後に出たKAMINOGE最新号「真説・佐山サトル」中に貴重な証言が。
「北沢(幹之)によると、猪木がアリ戦でとったマットに寝転がるという策は、ブラジル人のイワン・ゴメスに教わったものだという」!!・・・納得すぎる!!(☆0☆;)

>イワン・ゴメスの新日本参戦は75年の5月からで、翌76年2月には離日。猪木対アリは6月で日付が合わないようだが、2月にはすでにアリ戦の企画が進行してるので…在日中にゴメスが猪木に教授したとすれば、猪木さんはあの戦法を4か月以上練習してたんである! さすがとしか言いようがない・・・(^^;